2月例会報告

中学校は今・・・
―中学校での子どもたちの様子―

お話:村越則雄先生(市内中学校教員)

《中学生は今


 現在、小金中学2年生担任で、教科は数学です。今年で21年目(小金中7年、新松戸南中14年)、7年で移動という市の指導にめげずに、地域に根づいて父母にも責任もてる教育実践のため、10年は一つの学校にいようと思った。新設校の新松戸南中での14年が、今の基礎になっている。5年目で初めての卒業生を出した。その子たちが今年31才です。80年代のはじめ、校内暴力で日本中が騒然とした頃でした。当時の実践は、学区内に住み、日曜日に自宅で生徒が班長会などをやった。その後、近くの青少年会館で、日曜の夕方、子どもたちが互いに教え合いながら、勉強会をするようになった。出られるときは出て、出られないときは場所取りなどお母さんたちに全部頼んだ。そんな中で、ツッパリ君を引き込んだりした。2年間、このようなクラスの取り組みの中で、お互い隠しながら卒業していっていいんだろうかと思い、進路を公開し、すべてオープンにして卒業していった。それが良いかどうかはいえないが、いまだにその頃の子どもたちが付き合っている。そんな子どもたちが、私の出発点です。
 学校というところは、様々な日常活動を通して、集団の中で人と関わりながら人格を作っていく、自分を安心して出しながら、人って良いもんだ見たいな思いを作りながら、育っていく場なんじゃないかなと思っている。子どもたち同士が絡み合って人間と人間のつきあいを学んでいく場だと思う。
 15〜20年前の子どもたちの荒れた時代と、今の子どもをくらべた時、少し気になるところがある。幼児期から地域の中でいろんな子と遊び、いじめたりいじめられたり、という経験が薄く、多様な関わりをもてず、人間関係が非常に薄っぺらだなと感じる。
校内で「子どもを理解する」というテーマで研修をしてきて、今子どもに一番足らないところ・課題は、人間関係をどう作るかというところじゃないかと職員全体で一致した。それには教師はどうすればいいかというとこで、来年は勉強しようという話になっている。楽しくやっているような子どもたちでも、人間関係の稀薄さを感じる。自分をあからさまに出し、ぶつかり合うという人間関係を結ばない。うまく住み分けている日常生活を送っている。
 80年代のツッパリ君たちは彼らなりに組織化していて、我々が指導する時、ボス的な子と関わり、そういう子が仲間をまとめたり変えていくという図式があった。今は、外見はその頃と変わらないが、そういう子たちも強い絆があるわけでもなく、縦の関係もなく、一人一人がバラバラです。今も、集まってタバコを吸うというのはあるが、それ以外は保健室に3〜4人いてとりとめもない話をしたり、ボーッとしている。突っ張っているわけでもない。でも教師が力で抑えようとすると、彼らはどうしていいかわからず、爆発して暴力になる。授業に出るのはかったるい、かといって数人で一緒になって何かやるというのもない。何をしたいのかよく分からない。つかみどころがない。男子に多いが、弱々しくいじめられそうな子は、ポツンとしているか教師のところへ来る。取りとめもないことで、教師・大人と関わって、子どもとは関わりを持てない。女子の場合だと、廊下で腕組んできたり、髪の毛をさわったりという形でくっついてきたり、何かにつけて寄ってくる子たちがいる。
まじめだったり、リーダー的な子たちが、結構休み時間にポツンとしている。公的な活動の場では生き生きするが、普段、私的な世界になると動けない。自分で仲間を作っていくことがなかなかできない。
 今のクラスが1年の時、乱暴な子がいて歩きながら殴ったり、蹴ったりで、学校に来れなくなった子がいて、お母さんたちと頭を抱えたことがあった。その時、文化祭の取り組みで、いわゆる今までリーダーといわれなかったような、明るくていろんな子と渡り合える女の子がクラスの軸になり、クラスが変わっていけた。
住み分けている子どもたちは、おしゃべりはするが会話は生まれない。自分の考えを出すと、周りの反応が怖いから、うわべだけ取り繕うというところがある。女子がかろうじてガラスの上に割れないように乗っているという感じ。男子は、幼いを通り越し、訳がわからない。会話にならない。自分の世界だけで話をしていき、人の話を受けとめ答えるということができない。無視しているのとは違う。そういう子も増えてきている。最近は、切れるのを通り越し、腹も立たない・ボーッとしているという感じもする。できないのも個性という見方や、先の見えない今の社会が影響しているとも思う。頑張らなくちゃという意識もなく、自分でも訳がわからなく、なんだか落ちつかないという不安感によるストレスを抱えている。そういう時、教師の対応がまずいと、切れたり、仲間に対しいじめに走ったりする。

《その背景にあるものは、そしてできることは》

 家庭で自分をゆったり出せず、外で甘える子どもたちが多くなってる。それは次の三つのパターンが考えられると思う。家では親の期待・愛情をしっかり受け止めていい子だが、それに応えられない自分に気づいた子。物だけで甘えさせられた子。様々な事情で親子関係が崩れている子。また、学校の問題として、能力主義という一般的な体質がある。自由な発想とか、多様さを認めない。それと教師自身が非常に忙しくさせられている。子どもが管理されているというのは、必ず教師も管理されている。現在は、学習指導要領、教育課程の変化で、学校の独自性といいながら、様々な実践・研修会を見ると形だけで、子どもたちがその中で生き生き学び、自分の生き方に何を生かしていくかというのが見えない。またそういったことで、現場がさらに忙しくさせられている。子どもたち一人一人の指導に以前より時間がかかる。それに部活動に時間を取られている現実がある。それから、暴力・刺激を求めるという文化的な問題がある。
 共に考え、想像して遊ぶという遊びが変化してきている。自由な遊び場の問題、大人管理の子ども集団、それに地域の大人たちの対話・住民としての共同生活もない。そうしてみると、どのように日々生活していくか、大人自身が問われているのかもしれない。教師と父母が連帯して、子どものための学校づくりに力を尽くし、子どもが育つにふさわしい地域づくりに、親も積極的に関わることが大事なのではないか。

(まとめ:保浦)


このページの壁紙は、銀色花畑よりいただきました。