6月例会
今、PTAで何ができるか? 何をしなければならないか?
お話:味岡尚子さん(全国PTA問題研究会事務局)

【味岡さんのお話】

自分の子どもの場合は自分が責任を持っていけば何とかできるけれど、クラスにいる 親にあまり目を向けられない他の子どもだって、生きる権利がある。それを保障する人がいなかったら、PTAって子どもの幸せを願って活動するのだからPTAがそれをしなければいけないのではないかと思いました。それが最初にPTAに興味を持ったきっかけでした。

それから入学式の時に、校長先生が「忘れ物をしないようにランドセルの中もちゃんと点検して下さい」と言ったんですね。「小学校に入るって、子どもが自立する方向でやっていくのに、子どもって間違えながら、これはいけないと確認してやっていくのに、子どもの持ち物を親が子どものいない間に点検するなんて、子どもは全然進歩しない。校長先生はおかしなことを言うなぁ」と思いました。こんな学校だったら、ちゃんと親としてみていかないと、子どもを自立させてくれるのかと思いました。PTAについても入会届けを書いた記憶がないけれど、会費が集金される。いろいろ考えているうちに矛盾に気がついて、これは自分がやっていって、おかしいところはおかしいと言っていかなければと思いました。おかしいことはずっと続いているけれど、同じようにおかしいと思う仲間を作らないことには、間違ったことがずっと通っていく。仲間作りもしなければいけないのだと気がつきました。子どもに対しても、子どもの話を良く聞いてみなければわからないなぁと。疑問に思った時は事実を確かめなければいけないと思いました。先生がとても変な事をしている場合でも、何故変なことをしているのかを聞いて、それから言わなければいけないと。それは、よくよく考えてみると、人と話をするときは自分の考えだけを言うのではなく、相手の話を良く聴いて、何故そういうことを言ったのかをわかって話をする。そういうふうに関係って作っていくものだということをPTAでとても学びました。PTAって、ただでこんなことを学べるいい場所だと思いました。私立の幼稚園がいいと思って選んできている親の集まりとは違って、公立の小学校は価値観がバラエティに富んでいて、今まで自分たちが交わしてきた言葉が通じない人たちがいっぱいいる。全く回路の違う人たちと話をして自分の意見をわかってもらうには、どういう言い方をしたらいいのかを学ぶ場でもある。PTAは色々なことを学べる場でした。 

……PTAが「社会教育関係団体」として自立性を持つ民間団体であること、親の教育権を基盤にして、子どもの教育をよくするために父母と教師が対等な立場で学校教育のあり方について討議し、発言したりすることができる団体……(「社会教育法からみるPTAの性格について」より PTA研究321号)

PTAは学校とは別組織だということ。PTAのないところでも、親の教育権は一人ずつ皆持っている。PTAは先生も入っているけれど、先生は親から教育を委託されてやっているようなもの。そのように考えると、PTAというのは個々の教育権を全体として束ねていく。たとえば、「ボーダーライン学級問題について私は反対です」とおのおの言っていっても、「あなたはそういう考えですね。でも違う考えの人もいます」となってしまうが、集団になれば、多くの親たちの願いだということになって、それがPTAになれば、社会教育関係団体としての大きな力を持ってくる。

学校教育法で権限がどこにあるかということが定められているが、今校長の権限が強くなってきています。学校教育に対してものを言っていっても、最終的な決定についてPTAは弱いです。決定権はないかもしれないけど、子どものことについて親はずっと責任を持ちますよね。学校を卒業してしまえば、先生は責任をとりませんよね。どこまで親として、PTAとして働きかけられるか。日ごろからPTAが対応して、積み重ねがあれば、校長先生もPTAを無視できないという関係ができていくかもしれない。 

原則として、学校とPTAは対等な別組織だということ。校長も一会員。運営委員会のときなどに、校長が学校を代表して PTAへのお願いをすることもあるけれど、そのお願いをPTAとして受けるか受けないかを話し合うのは、運営委員会。それを「校長先生がおっしゃったのだから」と話し合わないで受けてしまうところもある。それは、一人一人の運営委員のメンバーの問題。「校長先生も一人の一会員として私たちと対等だ」と言い切れる人は、個が確立している人。「子どもが人質になっている」というような発想をしている人には言えない。

学校側にとって「困ったなぁ」という発言をする人でも、きちんと筋を通して会議の席で言えば、「言ったことで学校側から不利益をこうむることは許しませんよ」とまで言えれば、そういう人は不利益をこうむりません。 

……社会教育関係団体とは、「公の支配に属しない団体で社会教育に関する事業を行う事を主たる目的とするものをいう」(社会教育法第10条)

「国及び地方公共団体は、社会教育関係に対し、いかなる方法によっても不当に統制支配を及ぼし、又はこの事業に干渉を加えてはならない。」(第12条)……(前出「社会教育法からみるPTAの性格について」より)

 学校もPTAに対して干渉してはならない。そのことを知っている人と知らない人では、学校にものをいっていく時の姿勢が違ってくる。

PTAの会則に「学校の管理や人事に干渉しない」とあるところが多いが、それは逆でしょう。学校側がPTAに干渉しないのでしょう。PTAが「この先生は何年何組の担任に」というような人事に干渉することは、当然越権行為だと思う。でも、この先生は子どもにとってどうしても良くない、体罰するとか、子どもの意見を無視するとか、そういう先生に対し、だからはずすということではなく、その人がまずそれを改めてもらうということが大事。その先生がどういうふうに考えていて、それを改めるつもりがあるのかと、話を聞くことから始めなければならない。

「この子どもたちにとって良くないから、この先生に担任になってほしくない」といったときに、学校側は人事に干渉したみたいなことを言うけれど、それは違います。子どもの最善の利益を考えるのは大人の責任。親も先生も同じ大人として責任がある。 

 それから会則に、非宗教・非営利・非政党となるところを、非政治と書いているPTAがある。政治にしなかったら、教育行政はあってはいけないの。むしろ政治教育がスポッと抜けていることが、今の選挙を棄権する人を生み出しているようなものです。会則を一つ一つ点検していくと、変な所もあります。 

PTAって何だろう

ほとんどのPTAの会則には、「子どもの幸せを願って活動する」と書かれています。でも、戦前だったら、「名誉の戦死をするのが子どもの幸せ」なんていうこともあるかもしれないし、高度成長期には「いい学校へ行って、いい会社に入るのが子どもの幸せ」だったかもしれない。それを考えると、子どもの幸せって一言で言われても困ってしまいますね。幸せって何かといわれたら、今は一人ずつ違ってくるでしょう。でも、公教育の場での、PTAの中での幸せってなんだろう。少なくとも、学校の中でいじめがあって子どもがつらい思いをしているとしたら、その子は幸せではないだろう。クラスの空気がピリピリしていたら、良くないだろう。私一人の思いとは別に、皆はどのように思っているのだろう。クラスの中で出してもらって、聞いてみないとわからない。ただ大人たちが、本当に子どもにとって良いことを思っているとは限らない。大人は子どもの話を聞いていると思っている人はいっぱいいるけれど、チャイルドラインにかかってきた電話の中で、「大人の人でこんなに話を聞いてくれた人は初めて」と言う子どもが一人や二人ではない。親って、夕飯の支度をしながら子どもの話を聞いたりするけれど、「聞き流す」ということが多い。それでも子どもは「聞いていてくれるなぁ」と思えればいいのだけれど。子どもが「聞いてくれた」という実感を持てなければ、それは聞いたことにはならない。 

PTAは子どもが不幸せな時どうするか

たとえば、親が仕事で夕食時にいつもいなくて、夕方家に帰ると300円置いてあって、それでパンを買って外で遊んでいるというような子どもがいる。そんな時に、そういう子がどうあればいいのか。何ができるかはとても難しいけれど、親がより責任を持てるように協力するしかできない。かわいそうねと何かしてあげることが、必ずしもいいこととは限らない。何もできないにしても、そのクラスに思いをはせている親がいっぱいいたり…そういう親たちの子どもがクラスの中に集っているとクラスの空気が柔らかくなったり…PTAってそういうことだと思います。

それには、やはり一人ずつの大人たちが、いろいろな意味で情報交換もしなくてはならない。親としてこの世の中にいる自分に責任があるということを、学習してわかっていくということもある。それと、自分たちではできないこと、行政がやること、学校現場がやること、そういういろんなことがある時、きちっと要望を出し、そこがそれを受け止めて責任を果たせるように変えていくための働き掛けをしなければならない。大局的には教育条件整備ということだと思います。行政に要望していくというのは、なかなかエネルギーの要ること。でもやはり、それを単Pが考えていかなくてはならないし、学級PTAが考えていかなくてはならない。それには日ごろから、子どもを取り巻く問題にどんなことがあるかということを話していくことが大切。先生も入れた親同士の関係ができていれば、進めやすい。それがPTAでの親睦会。でも、今、昔と比べると人間関係を作るのが難しくなっている。地域に根ざした活動を長いスパンで考えれば、PTAというところで完結しなくてもいいと思わないと、今子どもは育たない。

PTAって、自分の個ができてないと、グズグズになってしまう

学校は制度なので、校長権限で「こうします」となったらそれに従ったりするけれど、PTAはそういうことは全然なくて、横のつながりで、私はPTAの会員になるかならないかを自分で決めて、PTAで何をするかも自分が決め、委員になるのも自分が決めている。それを思うと、PTAは非常に質の高い集団ですね。

では、会長って何するのかというと、総会の招集権、運営委員会の招集権は会長にあります。それ以外はあまりないのね。総会に提案することは運営委員会で出すし、実動部隊は各委員会だし。広報だって編集権は広報委員会にある。校長が何か文句を言ってきても、「それは広報委員会に持って帰ります」と言って、広報委員会で議論して、「校長先生をしている会員のお一人がこういう意見を言っていました」と伝えて議論をすればいいこと。自分の中に保守的なもの、権威的なものがあると、一会員の人が文句を言ってもあまり気にしないのに、校長や会長となると屈してしまう。PTAって、自分の個ができてないと、グズグズになってしまう。本当に質の高い組織です。

戦後民主的な国を作っていこうとした時、社会教育団体も機能してきたわけだから、私たち一人一人も民主国家を支えるということがあるのだけれど、現実はPTAほど民主的でないところがない。たとえば、普通の選挙は公職選挙法にのっとってやっている。PTAだってそんな感じでいいと思う。でも、役員を選挙しているところはとても少ない。以前私が呼ばれたPTAでは、「今まで出なかったのに、今回選挙に対抗馬が出てとても大変だから、来て話をしてください」と言われました。対抗馬が出るなんて立派なものじゃないと思ったけれど、そこはそれを危機だと思っている。そうかと思うと、役員のなり手がいないPTAがあったり、女は会長になれなくて委員長も男しかいないというPTAがあったり…。PTAをどんどん開いていって、一会員でも役員・委員と同じだけの情報を共有できるようにしていくのがとても大事。

先日全P研に「会長に立候補した人が二人いる。一人は学校に文句を言う人。教頭が変な人だという。この人には役員もさせなかった。もう一人は前副会長をやっていて慣れているからといって、断った。そうしたら、訴えてやるといわれたが、訴えられたらどうしよう」という電話があった。「そんなことされたら、私だって怒って、裁判すると言ってあげるわよ」と言ったのですが。いろいろやりとりをしたのですが、会則にのっとって選考委員会を開いてない。とても象徴的。 

子どもの権利条約に照らしてPTAの検証を

 「近くに公園があって、その公園をこんなふうにしたいという思いがあっても、PTAがないから、行政は一人の親、一人の地域住民の要望としてしか聞いてくれない。もしPTAがあったら、そこの小学校に通っている親たちの集団として交渉できて、もう少し思いが実現していくのではないか。本当に残念」

「PTAはないけれど、親たちが自主的にグループを作って、先生たちと学校教育についてよく話をするところから引っ越してきたら、PTAがあった。でも上から全部指図する。PTAがなかった時の方が子どもの教育も語れるし、子どもの幸せも語れてずっといい。」

こんな二つの内容の電話が全P研に同時期にかかってきました。それはPTAが悪いのではなく、そのPTAが悪いのですが、一般の人は悪いPTAのところへ行くと「PTAなんてない方がいい」と思ってしまう。いいPTAを作っていくことが大事なのだというふうにならない所が、PTAを変えていこうとする時の難しさですね。PTAは戦後すぐできたので、もう老朽化しているところがある。だからやはりチェックをしたらいいと思います。子どもの権利条約が明快に書かれているし、易しい文章なので、それと照らしてPTAを検証していくといいのではないかと思います。たとえば校外委員会が、子どもを監視体制で見ていないか、子どもを排除する・隔離するまなざしで見ていないか、そんな視点でチェックしてみるといい。そういう学習がとても必要だと思う。 

どこまで子ども中心に考えられるだろうか

 教育権というのは国にあるのではなく、一人一人の市民の側にあるというのが戦後の民主主義。今教育基本法を変えようという動きは、それを国家の教育権に移そうとしようとしている。教育基本法10条、私たちがPTA活動で学校側に学校教育に対して注文つけて、もっと子どもに良いことをきちっとやってほしいということはこの10条に裏付けられてやっています。この10条を変えようとしています。また、家庭にまで「こういう家庭教育がいいのだからこうしなさい」ということを国の方でするというふうにしようとしている。だんだん一つの価値観、国がいいと思う方向に家庭までやられてしまう。

子どもってとても前向き。大人よりはずっとエネルギーがある。今、あんな学校変だといって反乱している子どももいるし、学校の中で反乱している子どももいる。そういう子どもたちがもっと増えるだろう。どこまで子ども中心に考えられるだろうか。PTAって縛りがないから、これからもっと重要になってくるだろう。 

【話し合いから】

u PTAにはいろいろな考えの人が集まっていて、ぶつかることもあるし、いろいろな思いを共有できないこともあるけれど、だからこそいい所だったなぁとしみじみ思います。同じように感じる人だけでやると物事スンナリ決まるし、簡単に進んでいくけれど、いろいろな考えの人と一緒にやっていくやり方や、そのしんどさやそれと同時に楽しさも教えてくれたと思います。

u ウチの学校にはPTAがないのですが、今PTAを作ろうと活動しています。皆の意見を吸い上げて、なるべく多数の意見でPTAを立ち上げるということが難しい。少人数で走ってしまうことがあるのですが、どのように浸透していけばよいのかとても難しいです。

u うちは創立以来PTAのない学校で、特に今までPTAがなくて困ったという思いはなかったのですが、いろいろなお母さん方と接していくうちに、PTAのある学校から転校してきたお母さんに「PTAがないので、何かあった時に、どういうところで話をしていいのかわからない」というようなことを言われました。PTAって何だろう。PTAがあるとどういうふうになるのか、全くわからない。

u 最初の子が一年生に上がったときの担任の先生が、「お母さんたちが仲良くしてください。そうすると必ず子どもたちは良くなります。クラスはよくなります」と言われました。何もわからないまま、ハーイと言って、懇談会をやり、今のクラスでもそんなふうに「仲良くやろう!」といろいろやっているうちに、松P研のホームページに引っかかって、今日来ました。

u この4月に転校してきたら、まだPTAの役員が決まっていませんでした。今までいた学校ではスンナリ決まっていましたし、副会長をやっていた知り合いの方は「私好きでやっているの。先生と交流できて楽しいのよ」と言っていましたし、ここに来て決まらないのと言うのでとてもびっくりしました。いろいろな意見が言えていくとか、学校に対する疑問を言えていくということがこれからできるといいなと思います。転校してきて、疑問に思うことを素直にあげていって、いろんな話が聞けるといいと思います。

u PTAはないけれど子どもの幸せのこと、教育のことをもっと論じられたという、だけどPTAのある学校は逆に自分の子どもたちの生活や幸せに結びついたような、それを求めていくことを中心にした活動ではなくて、運営していく形のことをけんけんがくがくやっている。それに関わる事務的な仕事や学校の手伝い的な仕事が多くて、役員をすることは労力を吸い取られるだけで子どもたちの幸せに反映されないばかりか、家を開けっ放しにしてという思い込みが多くのお母さんたちにある。PTAでやっていることが子どもたちのことを考えてのことをやっているという意識を広げていくために、どういうことを運営委員会の議題に取り上げていったらいいのか考えていきたいと思っている。

u (味岡)役員は組織の運営の事務方なので、事務的な仕事が多いのは仕方がないのです。委員会や学級PTAの中でどれだけ子どものことについて話ができているかということだと思います。

u 浦安で教頭の横領事件のあった中学に子どもが通っていました。その事件への対応を見ていて、中学校のPTAは本当に機能しないのだなぁと思いました。選考委員長をした時に、引継ぎ資料を見たら、「人格的に問題のある人は立候補があっても選ばない」という申し送りがされていました。横領問題をずっと指摘していた人を役員にさせないためにそういう申し送りがあったのだと思います。その人は3年間学級長はやりましたが、立候補をしても本部役員にはなれませんでした。私はその文章ははずして次に申し送りをしました。

u (味岡)国立のP連は、公教育なのだからと教育委員会の傍聴は必ずP連としてやって、どんなことが話し合われているかを書いて単Pに送り、全会員に知らせています。

u 子どもが大きくなって現役のPTA会員ではなくなり、5年前に「こんな学校にしたい会」という公教育を変えたいという全市的な組織を作りました。教育委員会会議の傍聴や要望をしています。そんな活動の延長線上で、浦安にチャータースクールを作る運動を今しています。自治体と共同してやるという形の、公設民営のチャータースクールを作ろうと考えています。今まで学校を変えるという活動をしてきたのですが、アプローチを変えて、新しい学校を作って、先生も親も子どもも運営委員会みんなで運営していくという一つのモデルを作ることによって、今の学校にインパクトを与えられるかなぁと思っています。

u PTAとはどういうものかということを、各学校のPTAの人たちに勉強してほしいと思います。広報部長をした時に、活動ノートがあったのですが、そこに「信号がないからつけてほしい」と平成元年以前からいっぱい書いてあるのに、ずっと付けられないままできている。これを変えられなかったら、毎回同じ活動をしていても意味がないと思って、実行委員会で発言したら、「この人は何を言うんだ」という感じでした。実行委員会で何の発言も出ず、発言するとおかしいという雰囲気。PTAって変なところだというのが私の第一印象でした。でも、お話を伺って、やはりPTAはなくてはならないものだと思いました。意見交換ができないといけないし、会員一人一人が意識を持ってやっていかないと変わらないと痛感しました。

u 今、地域で事件が多発していて、集団下校することもありました。その対応が「守っているだけではないか」と切なくなるのですが、でも現実は安全な世の中ではないし、「暗くなるまで元気に遊んでおいで」と子どもたちを放すほど、のんきでもいられない。PTAとしてどうしたら良いのだろう。PTAとして手紙を出したかった。「皆でどうしたらよいか、一緒に考えましょう。暖かい大人の目で見守っていきましょう」それだけでも発信したいと思いました。人と人のつながりがとても大事だと思っているし、それをPTAで感じたいと思っています。

u 学校給食民間委託の問題が出てきて、最初は決まったことだから仕方がないと思ったのですが、やはり納得できず、いま少し考え続けて活動してみようと思っているところです。民間委託についての説明会の後PTA会長に「考えてみてくれませんか」と話したら、「それは調理員の組合が反対しているだけ。給食は今までのままやってくれるといっているのだから、何の問題もないではないか」と言う。うちの学校は穏やかで問題がないように見えたけど、学校の後援会的なPTAだったのだなぁと思いました。

u うちの学校には特殊学級がありますが、クラスに友だちの髪の毛を引っ張ったり、換気扇の紐を引っ張って回ったりするような子がいます。その子が何故普通学級に来ているのか疑問に思っていたら、今は親の意志で普通学級に通うということを選べるようになっているということです。その子がクラスでどんなふうかを見たいと思って、学級委員になりました。普通の子たちにもまともに授業受ける権利があるのではないかと思って。

u 私の中2の子どもも障害を持っています。小学校に入る時に、特殊学級に行った方がいいと診断されましたが、私は一緒に同じ時に生まれた友だちの中で置いておくことで、普通の流れを体験させて身につけさせたいという思いで、普通学級を選んで入れました。何か身に付けられるものがあれば、体験させたい。少しでも普通に近く生きていけるように。自立させたいという思いがある。先生方やお母さんたちの理解もあって、小学校6年間通いました。中学校に入る時には、子ども自身が「皆と一緒に行きたい」と普通学級に通うことを選びました。やはり「特殊学級があるのに何故入れなかったの」「入れないなら言ってほしかった」ということを言われたのですが、選べる権利があったし、教育委員会も認めてくれた。何故そう言われなければならなかったのか。一緒に生まれてきたのに、たまたま障害があるために外されなければならないのかと感じました。

u (味岡)障害を持っているお母さんだって、歯医者さんへ行くだろうし、映画だって見たいだろうしということで、PTAで希望者を募って、順番にローテーションを組んで、支えあったというところもある。今は障害を持っているからというけれど、障害を持っている人がいないクラスで、誰のことも排除しなくて、障害を持っている子が入ってきた時だけ排除するのかというと決してそうではない。そのクラスの中で排除する考えが蔓延していると、その中で乱暴な子とか、つっぱっている子とか、何か見つけて排除していく。

u その本人に、どうしたらいいのかしらとぜひ聞いてあげてください。互いによくするためにできることはないかという声かけをすると、とてもスムーズになると思います。

u 最初、クラスにダウン症のお子さんがいた時、どうしてそういうお子さんが普通学級にいるのかと思いました。ましてうちの息子がそのお子さんが大好きで、授業中にその子を追いかける役目になって、どうしようかと思いました。でもそこで学んだことの大きさは、学校の勉強や家庭で教えきれるものではなく、本当に育ててもらいました。うちの子に学習権があるように、その子の学習権もある。その学習権を守るためにはどうしたらよいのかと考え、担任の先生と協力して教育長に手紙を書き、先生をつけてもらいました。中学に上がって、彼とうちの子が辛い思いをしたのは、排除する特殊学級のある学校から上がってきたお子さんが、排除しました。それがとても許せなかったので、学校に話をしました。お母さん方の前で言ったので、お母さん方も「うちの子をかわいいと思うように皆同じなのだ」という気持ちに、少しずつ変わっていきました。PTAで順番にというのが、今だったら「火・水・木、私がやるわよ」と言えたと思います。そういう仲間作りがPTAの基本だということが改めて確認できました。

u わが子はダウン症ですので、知的には低いです。「特殊学級でゆっくり過ごした方が、伸ばしてあげられることがあるのよ」とさんざん言われました。でも私は、学習をとるか、社会性をとるかだと思った時に、学習ではなく、今しか体験できない社会性を取りました。勉強はできなくても、生きていくための知恵を学んで得ていくだろうと思います。

u 私は受け入れる側の子どもたちにとっても、とても得るところが大きいと思います。子どもたちの今のつらい気持ちの中には、良い子でなくてはいけないという気持ちがあります。先生や親の理想像に縛られている子どもたちにとって、「そのままでいいんだよ」と、違いを認めあえる。そのことを教えてくれる。

u (味岡)日本の場合は、学校に付属しているPTAになっているのだけれど、必ずしもそういうふうに考える必要もない。たとえばそこの小学校の中にPTAがいくつかあって、学校全体の問題だったら、それの連合体としてまた合意を取って、交渉するというやり方をしても良い。一つの学校に一つのPTAでなくてもいい。でもこれは既存のPTAがない場合。既存のPTAがあって、第2PTAを作ったところがあるのだけれど、既存のPTAが連Pに入っていて校長会と繋がっているので、こちらが認知されて、第2PTAの方は潰されていく。むしろ変な人がいなくなったと既存のPTAの人が言う。既にあるところは、中できちっとやっていった方が大事。
組織を代表する人やお金を管理する人とか、会議の記録を作っていくような人はいなくてはならないけれど、委員会を作らないというところもある。既存の専門委員会・常置委員会が今の若いお母さん達のニーズに合わないらしくて、そういうのをやめて、「会則に照らして逸脱しないことならいいよ」ということで、やりたい人たちがサークルを作るというような形でやっているところもある。これからPTAを作るところは、そういうふうに柔軟にやればいい。形にとらわれる必要はない。今までのPTAは会員になる権利のある人は、そこの学校に通っている教職員と親となっているけれど、登録制にしてその学区の人は誰でも入れるというようにしているところもある。正会員が教職員と親、それ以外の人は賛助会員にして、総会の議決権はないけれど会合には出席して一緒にやっていくというふうにやることもできる。
PTAの委員を出す時ってクラスが基礎。もとの学級がどれだけ子どものことを語れているかということで、PTAがどうなるかが決まっていく。各委員会の活動を先生の参加できる時間に行って、そこを教育を語る場にしているというPTAもある。
PTAはいろんな人がいるから、結果がすぐ出ない。今は自動販売機みたいのがあるから、入れると直ぐ出るという習慣が私たちに身についている。そういうことを追求してきた社会。でも、子育てってそうはいかない。PTAも同じ。それに慣れるということは子育てにプラスになるかもしれない。育った人が死ぬ時に『ああいい人生だった』と思えばというのが子育てなのだから、PTAもそんなもんだと思えるかどうかが、PTAを楽しめるかどうかかもしれない。過程を楽しめればいい。