1月例会報告 

子どものこと・大人のこと・学校のこと・PTAのこと…

あれこれ話し合いましょう

 

光をあてたいと思っている個別の取り組みというものがありますか 

     現状は見ると非常に絶望的な状況で、全体としてアプローチをしようとすると見えてこない。個別に頑張っているところに光をあてて、そこから学んでいくことで、何か見えてくるのではないか。

     そうした光をあてたいと思っている個別の取り組みというものがありますか。

     小学校の先生で総合的な学習の時間について、なかなか良い取り組みをしている先生がいる。そういう先生は学校の外の人たちとのつながりを持っている。

     いわゆる教育困難校といわれている高校を再生している取り組みとか、学校カウンセリングの取り組みとか、非常に興味深いものがあります。

     今まで総合学習的なことに取り組んできていた先生たちが、新たに総合的な学習の時間が導入されたことによって、かえって今までのような取り組みがまともにできなくなってしまうということも報告されています。

     以前、松P研の例会で芳賀先生の「先生と子どもが一緒になっていい授業をつくり出していくことが一番大切」というお話を聞いて、どんな絶望的な状況の中でも、実際に向き合って伝えあう先生と子どもたちがどれだけ充実した時間を学校という場で作るか、そこに一筋の光があると思ったし、そこからしか学校が変わっていかないのではないかと思った。

     今、書道教室をしていて、子どもたちと毎日向き合っている。自主夜間中学にも関わっています。書道の賞をとることは、大人にとってはたいしたことだと思えないかもしれないけれど、その子にとって起爆剤になることがある。学校では書道は省略されることが多い科目だけれど、書道の時間がとても待ち遠しいと思う子もいる。絵を描くことでも、文章を書くことでも、走ることでも、何でもいい。自分の能力として何か持つことができれば子どもにとってプラスだと思う。「素敵な字を書くのね」とほめられて、それで学校へ行くことが楽しいと思えるということを私は大事にしている。夜間中学には、学校から疎外されている人が多く来ている。夜間中学で書道の時間に2時間つきあうと、その人がいかに疎外されてきたかがわかる。夜間中学には、「そこに行けば誰かと必ず会える場所」というかすかな期待感で来ている人がたくさんいる。あれだけ要求があるのだから、松戸市が支援しないのはおかしいと思う。

     小学校1年の子どもがいます。仕事として、子どもが主人公のエッセイ漫画を描いています。関西から引っ越してきたばかりで、松戸の学校は今どうなっているのかがわからない。週休2日制になって授業時間が削減され、発表会などが全然ない。行事ばかり削減されて、子どもの楽しみがなくなった。机に向かってする授業ばかりで。そういう提案をしたら、校長は「それは時代の流れに反している」というようなことを言った。

     提案というのはどのようなことを?

     授業に差しさわりのない範囲で、音楽なら授業で習ったことを体育館で発表するだけでもいいのではないかというようなことです。子どもが誰かの前に立って発表する機会が減ってきている。度胸がついたり、チームワークが必要だったり、その過程でみんなが分かり合っていく。そういうことが総合学習だと思う。

     そういう過程を総合学習ととらえていく先生もいる。遠足でも、修学旅行でも、総合学習ととらえれば、今まで通りの授業をきっちりやっていかれると言う先生もいる。

     学校全体が緊張しているという感じがするわね。

     先生に一生懸命やってもらえてないという感じがする。

     生活科にしろ、総合的な学習の時間にしろ、担任の力量が問われている。

     ごみの山から宝物を拾い出すセンスがない先生では、今できない。

     先生自身が学校の外にいろいろな人との関わりを持っていて、いろいろな情報や知恵が入っている引き出しをたくさん持っていないと、それを子どもたちにワクワクして見せることができない。

     先生にその能力がなければ、PTAがクラス交流会のようなところに、外から人を呼んできて、子どもたちと一緒にやってもらうということができた時代もあった。地域の造形美術家に来てもらって、地球環境と美術について話してもらうというようなことをやってきた。先生がやってもやらなくても、PTA がそういうことに取り組んでもいいはず。 

学校には何も求めない? 期待したらいけない? 

     3・4年生は学校から帰ってくるのが、4時過ぎ。冬場は30分しか遊べない。

     他の学年の子どもたちと交わって遊ぶこともないのかしら。

     うちの子は、近所の子どもたちと遊ぶから、それはできている。

     町の中にその空間があるかどうかも重要なこと。どこでもいいから。

     確かに子どもたちは楽しいときは時間を忘れて遊ぶ。わが子はお絵かき教室に行っているのだが、学校から帰るとすぐに飛んでいく。帰ってくるのは6時ごろ。

     子どもの教育権は親にあるわけで、子どもにこういう力をつけたいとか、こういう社会人にしたいとか、そういう親の望みをかなえるところが学校の姿だと思う。

     家でお父さんに殴られていて、その子は学校では威張り散らして友だちを髪の毛は切る、いすを引いて怪我させる等々。

     感情が言葉にならない。言葉を獲得していないというか。

     それでいて、大人の前ではとても『いい子』。

     ちょっと変わった体質の子どもを扱えない親が多いと思う。

     多動の子どもを、どうしてそのまま丸ごと抱えることができないのか。

     子どもに問題があっても、親はその子がどういう子で、何を考え、どうやろうとしているのかということを理解して、支えてやれる親であれば、いろいろな状況はあっても、子どもは伸びていくと思う。

     私はマラソンの伴走者のような親であろうと心がけた。

     うちの子は、高校をやめるとき、高校の空気がいやだと言った。いい子を育てるというのがどこかにちゃんとあって、そこから外れるともう…。

     学校というのはそういうところなのだと私は子どもに言いました。学校の空気に合わないのは私の個性なのです。でも、「苦しかったら苦しいと言いなさい」とも言いました。

     夫と話すことは、学校には何も求めないということ。期待したらいけないということ。でも、子どもが学ぶところは学校しかない。

     それでも私は学校に非常に期待を持っています。こういう学校であってほしいというのはたくさん持っています。

     教育制度というのはいつも大河の流れのごとくあるということ。

     制度という大きな流れはあるかもしれないけれど、その中でもクラスでの先生と子どもたちという日常的な営みというのは、そのようなものではくくれない大きな豊かさがあるはずだと思う。

     その大きな流れの水際で、子どもたちをぎりぎりで守ってくれている先生もいる。こういうものを押し付けられてきたけれども、ぎりぎりのところでそれを抑えて、結構自由な発想で教育をしてくれている先生もいる。

     今、学校法人でなくても学校を作れるような規制緩和をしようとしている。特例として株式会社やNPO法人が学校をつくれるようになる。そこに東京シューレが手をあげているようだけれど、私はちょっと違和感を覚えている。 

自由に選べるというと、とても良さそうに思ってしまう 

     算数ができないと国語ができない。国語ができないと算数ができない。文章力が欠けていると、計算を組み合わせていくことができない。文章を読む力がないとそこでつまずいて、どんどん落ちこぼれていく。

     時間をかけて小数点のやり方を教えてやると、その場では覚えるけれど、明日になると忘れてしまう。一つ一つ積み重ねていくことが大事。でも問題を抱えている家庭では、そうしたことはなかなかできない。手をかけてやれば何とか落ちこぼれないけれど、できない子は大体かまわれないと思う。

     できる子はできる子で物足りないと思う。

     だから今 習熟度別授業というのが導入されてきている。

     都立高校の学区制もなくなってしまった。

     自由に選べるというと、とても良さそうに思ってしまう。本当はそこに行きたいと思う子が行けなくなってしまうのに。

     いくら自由だといっても、『私の行ける学校』はいくらもなくなってしまう。

     今日の新聞に出ていましたね。都立高校の推薦応募状況。受験生が「人気校」に集中する傾向に拍車がかかったと。

     成績優秀の子はどこでも受けられますよ。そうでない子はどこも受けられない。

     自由に選べるということに魅力を感じる人も多いのも現実。習熟度別授業にしても、それによってできない子ができるようになれば非常にいいのではないかと思う人は多い。でも、習熟度別授業というのは、いかに効率よく短時間に子どもたちに学力をつけさせるかということだと思う。できない子も時間をかけてじっくり取り組めばできるようになるのは確かだけれど、いろいろな子が一緒に集まって、互いに教えあったり、ワイワイしたりというものがなくなってしまう。

     トップをうんとトップにするためには、その方法しかない。ブランド商品をつくるにはその方法しかない。

     でもそうは言わないで、できない子にきめ細かい指導をと言う。

     先生自身も、自分が学んできて楽しかったことを子どもたちに伝えられていないのかなぁ。

     今、松戸市の小中学校の先生の平均年齢は、47才位。一昨年までは、新卒の先生がしないで1人2人くらいしか入ってない。

     40人学級編成のままだと、クラス数が増えないから、先生を増やせない。高齢化はどんどん進んでいくばかり。体育やっても息切れしてしまう。いろんな問題を引き起こしている。

     若い先生も育たない。将来を考えると真っ暗。

     今 気になっていることは、30才を過ぎたくらいのお父さんが余り口を開かない。会社でもしゃべることがなくなっているのではないかと思う。家に帰ってきてもしゃべらない。口数が非常に少ない。

     企業の報告書も全部メールで送るしね。

     意見がないのかと思うとそうではない。職場でやたら物を言うとこてんぱにされるのではないかと思う。

     今 労働状況もひどいですからね。 

優秀な人間を育てるために、落ちこぼれた人たちを国が生み出していく 

     子どもは小さく固めないこと。あらゆることを獲得するチャンスを大いに持とう。海や山に大いに行こう。そういう中から自然は何なのか、宇宙はどうなっているのかということがおのずと入っていく。その時に実技も獲得する。文化的な施設にも行って、何がどうなっているか知らせる。実際に体験したことから学んでいくことが大事。子ども自身が豊かな自然の中から、スポンジのように吸収していく。私は、学校を中心に考えたらいけないと思う。人間を育てるのだから、何でも人間が育つための栄養になっていると考えて、その一部分が学校。

     今、総合的な学習の時間が入ってきて、音楽や美術の時間が削られていこうとしている。

     学校でしか、優れた文化に触れられない子どももいる。学校でやる音楽の授業で、一度でもすばらしい音楽に触れるということは大事だと思う。

     家庭で優れた文化に触れられる環境にある子どもたちは良いけれど、学校でしか触れられない子どもにとっては、音楽や美術の時間が削られたら困る。そちらに焦点をあわせてもらいたい。

     今の流れは、ほとんどが習熟度別授業になるのではないでしょうか。文科省はそれをやってくると思う。

     学力のある子が学べるものが出てきて、学力のない子が学べないものが出てきてしまうのか。

     学力のある子だって学べないものが出てくるよ。人間は人間としてしか育たないのだから。同じものだけ固められたら育つわけがない。

     いろいろなものを学べる機会を、能力などにかかわらずすべての子に等しく保障するのがこれまでの教育基本法の理念だったはず。

     習熟度別授業にどれほどの弊害があるのかということを、私たちが説得力を持ったものを突き出せるのか。圧倒的に賛成する人が多いと思う。

     優秀な人間を育てるために、落ちこぼれた人たちを国が生み出していく。生活もままならない人たちを量産していくわけだから。企業は、日本という国を先端で走らせるために、トップに立つ優秀な人間を作りたいと思っている。

     習熟度別授業も、子どもたちが選択すると、基本的なことをやるクラスを希望する子どもたちのほうが多い。それなら、皆で基本的なことからじっくりやればいい。

     要するに、一番できない子が邪魔なのよ。

     差別しか生み出さない。

     一斉授業だと、できる子が伸びないというのが結局問題なのでしょう。できる子ができない子に教えるということで非常に力をつけていくということもあるのに。教えあうということがとても大事なのに。

     人格の形成が教育の目的。

     先ほどの都立高校の学区がなくなった話ですが、都立高校離れが進んで、このままでは立ち行かないということですよね。でもその結果、受験者が集中する高校とそうでない高校のギャップが大きくなりましたね。どうなってしまうのかなぁ。

     依然住んでいた兵庫県は総合選抜だったのですが、千葉県は総合選抜ではないのですか。

     千葉県も一時総合選抜を行っていたのですが、今は学区がとても広くなってしまいました。千葉県内のほとんどの高校を受験できます。千葉県だけではなく、全国的に学区を広げていこうという動きですね。

     25年位前に、総合選抜を獲得しようと運動して、その時に教育とは何かという学習会を何回も行った。それでやっと獲得したのに、2・3年でだめになってしまった。

     15才で高校に入る時点で、明らかに偏差値で輪切りにして、できる子とできない子に分けるということを国家的に公認しているようなもの。僕に言わせれば、学校というところは学力を媒介にして身分を買うところ。学力のあるやつは出世できるという構造で今までやってきて、うまくいってしまったのが日本。理念的には勉強を教えるところ、文化を育てるところというのが前面に出てなければ、誰も信じませんが、裏側のメッセージとしては、身分を買うところ。今は、それがぐらつき始めた。大学を卒業しても就職できないという状況で、身分を買うということがどうしようもなくなってきた。もっと絶望することが数年後に起きるだろうと僕は思っている。僕たちの世代は子どもたちを大学に行かせられるという貯金がまだある。数年後にはその貯金が底をついて、すべておかしくなるだろう。終戦直後の闇市と同じような状況になるだろう。教育も自由市場にしようということだから。

     最近、学力低下論が盛んに言われているが、学校の外で何が起こっているかというと塾や予備校の再編。親というのは子どものためにお金を出しますから、そのお金をいかに使わせるか、内需拡大をしようという一つの政策なのではないかと思えてしまう。でもそんなことは長続きしないだろう。

     企業のあり方は、正社員は本当に一握りいればいい。あとはパートと海外で人件費の安い労働者がいればいいというもの。トップクラスの人間が3%いればいい。

     それが今日本の行き詰っている原因だと思う。

     経済が上昇している時は、中国の何十万人という工場労働者を吸収してきた。それが全部だめになって、日本の産業構造は完全にパーになってしまった。今日本に残っているのは何かというと、サービス産業と情報産業。情報産業というのはトップクラスの人間が必要だし、国際的に通用するような人間が必要だということになってしまった。そして何が起こったかというと、大学卒業しても就職できない。勉強するということの動機付けは社会的に上昇したい、出世したいということがあった。それが全部パーになってしまった。

     それなのにまだ親の学校信仰がなくなっていない。

     中学卒業しても仕事がない。高校卒業しても仕事がない。とりあえず大学へ行っていたほうが選択肢は増えるから、というわけ。

     大学卒業しても就職できるわけではないけれど、あわよくばその3%の中に入れるかもしれないとかすかな期待をするのか。

     そこから外れた生き方を皆がそれぞれ考えていかないと。

     今、中小企業で頑張っているところは、今までの日本がやってきたものづくりを大事にして、そこに新たなアイデアを加えながら常に前進してきたところだと思う。人を大事にしている企業はやはり強い。

     もっと世の中をゆっくり動かすとか、農業を重視するとか、ものづくりはコストがかかるのだから安くするだけが世の中を豊かにするのではないとかということを、全体が理解していかないと。

     今、若者はものすごく過酷な労働状況の中にいますよ。契約社員や派遣労働、サービス残業等々。

     熾烈な競争の中にいる。

     そんな中に生きていたら、大人も子どものことを見ている余裕がなくなる。 

憲法によって私たちの生活が守られているかということを実感できなければ、

憲法を守ることはできない 

     「憲法って何?」という新入生が入ってくると嘆いていた大学の先生がいた。

     現実として、大学生になったって憲法なんて読んだこともないという子どもがいるわけだから、そういう現実を受け止めて、小学校でやるところに戻って、憲法の基礎・基本を教えていかなくてはならない。

     憲法をきちんと教わってきていないというのはひどいものだね。

     大人だって、憲法を読んでいない人は多い。

     憲法がいかに人々の暮らしに密接なものかということを人々に伝えてこなかったという責任が憲法学者にはあるということを、昨年新聞で読んだ。

     憲法によって私たちの生活が守られているかということを実感できなければ、憲法を守ることはできない。

     教育基本法を変えようということも、国民の多くが知らない中で行われようとしている。