教育基本法を読んだことがありますか?
―中教審答申と子どもの権利条約をふまえてー
お話:喜多 明人さん(早稲田大学教授)
【喜多さんのお話】
「教育基本法を読んだことがありますか?」というタイトルは、私のフィーリングとぴったりですね。読んだことがない人にとっては「教育基本法改正反対」というのは距離があります。「読んだことがありますか」というような目線で教育基本法の問題を考えていくということが、私の今日の話につながっていくと思います。
外交官2名が殺害されるという事件がおきて、いよいよ日本人の犠牲者が出てしまいました。やたらテロとの戦いといいますが、地元の感覚で言えば武力紛争、戦争といえるかどうか、これもブッシュが勝手に戦争が終わったと言っているだけで、内戦に近い状況になるかもしれませんね。もしかしたら、4・50年たったら、歴史は『イラク人のレジスタンス運動』と言うかもしれません。とにかくアメリカと日本は「テロに対して戦うのだ」という言い方でずっと来ています。イラクの復興支援という美名の下に、日本が戦争に巻き込まれようとしているそんな中で、市民として何かできることはしなければならないという、そういう気持ちにかきたてられる時期に来たなと、いやな時代になってきたなと思います。一般的に市民ができる政治的な活動というレベルだけでなくて、自分の持ち場で平和や戦争の問題に対する問題提起をしていく必要があるだろうと。私の持ち場は教育ですから、教育や子どもの問題を持ち場にしてみたときに、こういう問題を考えていく出発点は、教育基本法の「改正」問題です。この問題を我々がやり続けることが、今日本が戦争に巻き込まれていくことに対する抵抗として、市民としてできる最善の方法だと思っています。しかし、単純にそれだけで教育基本法の「改正」問題に関わったわけではありません。
T 私の問題意識―「改悪問題」に関わらざるをえないわけ
1.“今回だけは動く”輪を広げる
今日のキーワードは、“今回だけは動く”です。実は、私も“今回だけは”なんです。『教育と文化を世界に開く会』という会で、2002年7月に声明を出しました。おそらく教育基本法「改正」問題に関しては一番早い声明だと思います。声明を出すときに、出した人たちが中心になって勉強会を継続しようということで、月1回の勉強会をやってきています。そうして、一般市民にぜひ教育基本法の問題を知ってもらおうとやってきた団体です。私はこの『開く会』の事務局をやっています。仕掛け人は藤田英典さん、佐藤学さんで、教育基本法「改正」の動きがあるので、それにきちっと対応できる取り組みをしたいということで、雑誌『世界』の編集長の岡本さんがコーディネーターとして動いていました。その岡本さんに会った途端に、「教育基本法改正に反対する取り組みの事務局を引き受けてもらえるとありがたいんだが」という話から始まって、私はいったん断ったのです。というのは、一昨年の4月に私にとってのライフワークの総仕上げとして、子どもの権利条約総合研究所を設立しました。もうNPO法人の資格も取りました。研究所として、『子どもの権利研究』という雑誌を発行しています。研究員100人を用意して、1人1万円の研究ファンドも払ってもらう。若手の研究者を養成するためのファンドですが。私は自宅を改造して、1階を全部研究所にしてしまいました。私としては一世一代の研究所づくりです。それをやろうとしていた時に、岡本さんから『事務局やって』という話です。だから『とても無理』と一度は断りました。最後の口説き文句は、『喜多さんは市民の立場で物を見てきた人だから。今回は、教育界以外に働きかける団体を、つまり一般の市民を相手に仕掛ける団体を作りたいので、10年間殆ど市民活動をしている喜多さんだからこそできるのだ』というものでした。私は、この10年教育運動にはノータッチでした。もっぱら市民運動。1991年に子ども権利条約ネットワークを立ち上げて、NPO活動を中心にやってきたわけで、教育運動には少し距離をおいてきました。むしろ市民の目線で、日本の教育を見直してみたいという気持ちでやってきました。その目線でできるのは私しかいないといわれれば、確かに市民活動をやっている研究者は少ないです。ついに断りきれずに事務局を引き受けることにしました。
このことを何故長々と話すかというと、私たちがやっているグループは、皆“今回だけは動く”というタイプなんです。藤田さんにしても、佐藤さんにしても、哲学者の梅原猛さんも、瀬戸内寂聴さんもそうです。タレントで引き受けてくれたのは牟田悌三さん。尾木直樹さんも「教育評論家として生きていくためには第三者的な立場で評論していかなくてはならない。でも今回だけは例外的に反対の立場で行動し、話をします」と言っています。このように、“今回だけは動く”という人たちが、私たちの『開く会』を非常に支援してくれています。
“今回だけは動く”という人たちをどれだけ結集できるかが、教育基本法「改正」問題を阻止できるかどうかの決め手ではないかと思います。毎回動いている人を毎回動員するだけでは限界がある。
2.“市民の目線”で、「改正」論議を広げる
市民の目線で「改正」問題を考えた時に、NGO活動をしている人間からいうと教育基本法は遠い存在なんですね。一般の市民レベルでの教育基本法に対する関心というのは、ほとんどないということを実感しています。教育基本法というテーマでは人は集まりません。ネームバリューのある人を講師に呼んで、そのネームバリューを利用するしかありません。私たちの開く会は全部名前の知られている文化人。この人も反対しているのだという形で、教育基本法問題に関心を持ってもらわないと、市民はなかなか動いてくれないのではないか。
はじめの頃、意見広告を出そうという話もありましたが、私は反対しました。朝日新聞の全国紙に一面意見広告を出すと、だいたい2000〜3000万円かかります。たった一回の意見広告を出すために、それだけのお金を集めるだけで身動き取れなくなってしまいます。歴史教科書の場合は、このように変わるという具体性があって、それでは困ると賛同する人がたくさんいて、意見広告は成功しました。でも、教育基本法が「改正」されて何が変わるの?という具体的なイメージがわかない。切実な身近な生活の中で、それは困るよという形で、自分たちの身近な問題に結びつけばお金も出そうという気になりますが、残念ながら教育基本法問題ではお金が集まるとは思えませんでした。最終的には、市民団体の連絡会で、多彩な意見広告という形でやりました。
市民が教育基本法問題に関わるのがいかに大変か。『開く会』では、一昨年の9月から、毎月一回の教育講演会を行ってきました。一回目では、川田龍平さん、藤田英典さんと、全P研の味岡尚子さんにも問題提起をしてもらいました。この時に、印象的だったのが、味岡さんの問題提起の中の、「憲法も生活実感とは離れているが、学校で教わった。教育基本法は、学校で教わることもなかった。読む機会もなかった」という発言です。確かに、憲法はイヤでも皆勉強しています。憲法改正問題になると、非常にストレートに、例えば9条が改正される話になれば9条を読んだことがあるという人が全体になれるのです。ところが教育基本法が改正されると言っても、誰も読んでいなければ意味がないですね。そこのところを味岡さんが指摘してくれて、ここが私たちの出発点になっています。
なぜ教育基本法が読まれなかったのか。なぜ学校で習わなかったのか。
教育基本法は大学で教職課程でも取らない限りは習いませんね。よっぽどのことがない限り、教育基本法に出会う場面はありません。なぜ習わなかったのか。ここは大事です。おそらく、暗黙の前提に、習う必要がないという思い込みが教育界にあったのではないですか。つまり教育基本法というのは、教育を担当する側の法律であって、教育を受ける側にとっては必要のない法律なのだという意識があったのではないですか。なぜ習う必要がないと思われたかというところが、一番大事な出発点ではないかと私たちは考えました。
確かに、教育政策を進める側、学校や教育委員会のように教育関係者として教育を進める側にとって、教育基本法は重要。では、教わる側にとって、本当に不必要なのか。
私たち市民・保護者・子どもたちは、教育意思決定主体としての当事者性が欠如していたのではないか。自分たちが教育をつくっていくのだ、自分たちが教育に対する意思決定に参加できるのだという、そういう当事者としての教育に対する受け止め方があれば、教育基本法というのは生かせるのです。そういうふうな意識が市民は保護者の側になければ、教育基本法というのは全く意味のない法律ということになってしまいます。
教育基本法「改正」問題に関心を持ってもらったり、反対の意思を持ってもらったりというのが一番大事で切実かもしれないが、長い目で見たら、教育基本法を私たちが必要なのだという意識への転換、自分たちが教育の当事者であり、教育の意思決定に参加する立場にあるのだという意識の形成・基盤がなければ、教育基本法「改正」をたとえ阻止したとしても、そのこと自体意味を持たない。教育基本法そのものが私たちにとって生かせるものなのだという意識の転換が大事。
3.地域でこそ教育基本法の実現を
私は、市民・住民の当事者性を規定している教育基本法10条1項教育の国民に対する直接責任の原理を踏まえて、教職員・保護者・子ども・地域住民のパートナーシップによる地域教育共同体づくりが進められていくということが、教育基本法を生かすという視点で大事だろうと思います。
教育基本法 第10条(教育行政)教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。 A教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。 |
「不当な支配に服することなく」というのは、教育の自主性や、教育の自由を保障するという意味で、不当な支配を受けないで自主的・自由に教育の営みが行われるということです。「国民全体に対し直接に責任を負う」ということは、間接的ではないということです。父母・地域住民・子どもたち、そういう国民全体と教育とが直接的な責任を負えるような関係で教育が営まれていくということ。教育基本法が制定された当初、国民全体に対し直接責任を負うというしくみとして想定されていたのは、公選制の教育委員会でした。教育委員を全部住民が選ぶ。直接選挙で選ぶという考え方でした。教育委員を直接選挙で選ぶということは、戦後何回か行われましたが、そのあと政府がその制度をつぶして首長の任命制にしてしまいました。住民が選んだ方がいいのではないかと、中野区では準公選が一時期行われましたが、それに続く自治体がなかったので、最終的にはそれもつぶされてしまいました。
中野区の取り組みはつぶされてしまいましたが、私は、形を変えて、子どもや父母・地域住民の教育参加、あるいは子ども施策全体への参加を進めていく新しい参加条例が川崎市の「子ども権利条例」だと思っています。住民参加という意味でとらえると、教育委員の公選制という目標は今でも課題としてあると思いますが、学校運営に住民や保護者が参加することがもっと直接的だと思います。教育委員を選ぶというのは直接責任性なのだけれど、学校との関係はまだ間接的ですね。保護者・住民・子どもたちが直接的な教育責任を果たせるような共同体を作っていくことが、現代的な教育基本法の生かし方です。それを始めたのが川崎市です。子どもの権利条例にもとづいて、いわゆる四者協、学校教育推進会議をつくっています。子どもが中心になっていて、保護者・住民・教職員の四者が合同で学校を支えていこうというものです。文科省にも配慮して、「開かれた学校づくり」と言っていますが。しかしこれはあくまでも配慮でして、参加型の共に支えあっていく学校のしくみということです。
川崎市の子ども権利条例は、前文の中に「子どもは、大人とともに社会を構成するパートナーである」と書かれているように、子どもと大人のパートナーシップというのがこの条例の基調にあります。第2章では、人間としての大切な子どもの権利として、7つの権利をあげています。川崎で今一番人気があるのが「安心して生きる権利」、子どもに一番人気があって大人にあまり人気がないのが「ありのままの自分でいる権利」。両方に一番人気がないのが15条の「参加する権利」。意識調査をしても、自分にとって大切だという実感がある子どもも少ないです。「自分で決める権利」は中学生世代に人気がありますね。よっぽど自分で決められないのでしょうね。この条例づくりには、9名の子ども委員が参加していますが、その中の中学生が「自分で決めたい、自分で決めたい」と言っていたんです。ぼやきに近かったですね。意見表明権というのは今の子どもには人気がないです。人と違う意見を言ったらすぐにつぶされますから。「自分で決める権利」というのは、意見表明権を想定していますが、子どもの生活実感に合わせてこの言い方にしています。
第3章の第1節が家庭、第2節が学校や福祉施設、第3節が地域で子どもの権利をどう実現していくかということを扱っています。権利保障はお役所仕事に任せてはダメ。市民の持っているお上依存体質を変えていくこともこの条例の課題です。確かに、行政に何かをやらせる、あるいは何かをやらせないというのも、市民にとって大事な役割ですが、それだけだったら全部行政がやるかやらないかというだけ。私たちは何ができるかという視点を持つという意味で、第3章は親の立場で、あるいは学校の立場、地域の立場で何ができるかということを書き込んでいます。その中の学校のところで、
〔川崎市子ども権利条例〕 第2節 育ち・学ぶ施設における子どもの権利の保障 (育ち・学ぶ環境の整備等) 2 前項の環境の整備に当たっては、その子どもの親等その他地域の住民と の連携を図るとともに、育ち・学ぶ施設の職員の主体的な取組を通して行われるよう努めなければならない。 |
第4章
子どもの参加 (より開かれた育ち・学ぶ施設) |
長野県のように1校・2校がたとえば上田六中のように、学校として四者協を作っているところはいくつかありますが、自治体ぐるみでやっているのは川崎市と埼玉県の鶴ヶ島市です。この2つの自治体は、学校選択制をとらないで学校参加制度をとったわけです。鶴ヶ島市は議会でかなり議論して、学校選択制はとらないと教育委員会がはっきり発言しています。「われわれは学校協議会で行く。直接参加のしくみでいくのだ」という対応をしています。松戸で今学校選択制で揺れているという話なので、学校選択制についても触れたいと思います。品川区、日野市と導入された当初から、学校選択制には問題があるという話をしてきました。にもかかわらず、東京23区のうち10を超える自治体が学校選択制に入ってきています。私の住んでいる目黒区も中学校の選択制が今年度から導入されました。
学校選択制度の基本問題
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子どもの学区学習環境権の侵害
『学校環境と子どもの発見』(喜多明人著1983年エイデル研究所)より 特に学校統廃合問題は、校地の位置選定のあり方とかかわって直接的に問われてきた。その中で、富山県の立山小学校の廃校、統合小学校への就学強制をめぐって争われた行政処分取り消し訴訟における名古屋高裁決定(1976年6月18日金沢支部決定)は、校地選定の基本的基準をさし示したものとして注目される。 「…(中略)上記廃校処分によって上記児童らことに低学年児童らにとっての旧小学校への徒歩通学による居住地域の自然との接触、それについての理解、また、上記抗告人らと上記児童らにとっての旧小学校と家庭との親密感、近距離感等旧小学校への就学によって維持される人格形成上、教育上の良き諸条件を失うこととなり、それは上記抗告人らにとって回復の困難な損害といわねばならない。」 |
A 小・中学校の学校選択制は、結局は親の意思。子どもの意見表明権が生かされることはほとんどないといっていいでしょう。むしろ親の意思=受験・進学ということになります。品川区ではいわゆる受験名門校に希望が集中しました。また、希望が少ない学校は、教育委員会としてはもちろん廃校にしていく。少子化が進んで、財政合理主義で統廃合する時に最も使える論理が選択制です。選択制は一番住民の抵抗がない統廃合ができる。
B 選択制の一番の問題点は、受身的な「消費者」感覚の問題。結局は商品の品定めになってしまうんですね。大学の学生も典型的な消費者感覚ですね。これだけ高い学費を払っているのだから、エアコンくらい完備してほしいとか言うんですよ。学生は大学の自治の構成員、パートナーなのです。教育の問題を消費者的に考えていいのだろうか。学校選択制というのは看板選びで、どういう特色ある学校をつくっていくか、それを商品の品定めをして親が選ぶ。保護者や住民や子どもたちをそういう位置に置いてはいけないのではないか。むしろ共同経営者として、パートナーとして学校を共同運営していく位置に置いていくことが大事だろうと思います。
教育基本法を生かしていく視点、教育の直接責任の原理を現代に生かしていくような取り組みを作り出していくことによって、保護者や住民にとって、教育基本法は身近なものに、自分たち教育当事者にとって重要な、教育基本法は教育のあり方をみんなで考えていく時の基本的な文章として、位置づいていくのではないでしょうか。
U「改正」問題を検討する
「改正」問題で皆さんが批判している論点は3つある。
@ 「改正」理由がはっきりしていない、根拠が希薄。
A 「改正」内容そのものが非常に人権侵害、憲法違反、条約違反という性格を持っているのではないかという、その内容の問題点。
B 「改正」手続きが全く不適正。おかしい。
一番目立っているのは、「改正」手続きがメチャクチャだということ。これは誰もが認めている。小渕さんが電話でかき集めたブレーン会議を「教育改革国民会議」と名づけて、首相の私的諮問機関で、何の法令上の根拠もないブレーン会議の報告を根拠に教育基本法の「改正」を決めてしまった。これでは法治国家としてかっこうつかない。そこで、形だけでも法律上の根拠のある中教審にはかろうとしたのが、2001年の11月。でも諮問文の段階で、法律改正を前提にどう改正するかという諮問文で、これも前代未聞です。改正するかしないかということは諮問していない。そしてその中身は過半数に満たない人たちで、しかも単発的な発言をさせておしまい。中教審の委員だった市川昭午さんが「いかに議論させないかがテーマの会議だった。」と怒って言っています。一つの問題提起を引き取って議論するということを絶対やらせない。中教審答申は、もともと教育改革国民会議で出た結論を形式上法律上の審議会で答申を出させたというものに過ぎない。
1.「政治」特化の不毛さと「文化論議」の大切さ
「改正」理由の不当性ですが、これを言い続けたのは、“今回だけは動く”という藤田英典さん。教育基本法の「改正」にこだわるのは、中曽根、森、町村という自民党の中でも「タカ派」と言われている一部の議員。自民党の若手は教育基本法の「改正」にそれほど関心がない。そのような特定の政治家の圧力で教育基本法の「改正」をするのはおかしいというのが、藤田さんの基本的なスタンス。教育基本法「改正」には教育的根拠がないと良く言っています。しかし、教育的根拠がないということだけではダメ。教育的根拠がないといったら、政治論議になるだけ。政治論議になったら、数の論理になり、数で通ってしまう。
私は、文化論議が必要だと思っています。非常に閉鎖的な偏狭な文化ナショナリズムに対抗するのが、教育基本法「改正」の問題。開かれた文化の創造を目指す、「普遍的にして個性豊かな文化の創造」という教育基本法の趣旨を文化論議として、一般の市民に訴えていく。
2.改正内容の違法性、違憲性と条約違反性を問う
1)「教育規範法」としての教育基本法の問題
「改正」内容の問題にこだわっているのが佐藤学さんです。先日、佐藤学さんと姜尚中さんとの対論を行いましたが、二人が共通の思いとして語ってくれたのは、教育基本法を何か美化して、全部をいいものと考えて、「改正」は反対という単純な「改正」反対ではだめだということです。今度の「改正」で、何を失ってはいけないのか、何を守らなければいけないのかということをきちっと把握しなければいけない。教育基本法全体を守らなければいけないという錯覚をしてはいけないと、彼らは話していました。特に佐藤さんは、「もともと私は教育基本法には批判的な立場。教育基本法というのは、教育規範法。あるべき教育論。教育の目的や理念を法で定めるというやり方はそもそも問題がある。そういう教育規範を法にすれば、必ずその時の権力が教育のあるべき姿はこういうことだと入れたがる。教育の目的や理念を法に入れなければ、そういう論議にはならない。」と言っています。法というのはある種 権力作用をもたらしますし、権力と結びつきやすいですし、画一的な秩序を求めるという性質もありますから、法の機能から言えば、教育のあり方があまり法的に規制されていくのは好ましいものではないという思いは、教育学者全体にあると思います。
では、問題のある教育目的規定がなぜ教育基本法に入ったか。それは、大日本帝国憲法と教育勅語という戦前の体制を否定し、それを超えた、新たな戦後の憲法の価値基準にもとづいた教育の理念を提示する必要性があったから。
1980年代半ばに、教育法のオーソリティーである兼子仁さんが「教育基本法の法律としての効果は終わったから、第1条は訓示規定だ」という学説を立てます。つまり法的強制力はないと。教育の自由論というものです。教育の自由の視点から、教育の目的を法で強制するということを訓示規定にとどめるという考え方です。
これに対して真っ向から反対したのが憲法学者の永井憲一さんです。もともと教育基本法の教育理念というのは、憲法の26条を根拠につくられている理念。憲法26条というのは国民の教育を受ける権利を定めている。国民の人権としての教育の法定というところに意味がある。国民が基本的人権として受けるべき教育の中身は、平和や民主主義、人権や自由・真理に基づく教育だということを、憲法26条から教育基本法に示されたもの。教育基本法が準憲法だと言われるのはそういう意味。憲法26条を補完する準憲法が教育基本法。これに法的拘束力がなくて、訓示規定だというのはおかしいというのが永井さんの主張です。教育の自由で、戦争を賛美する教育も許されるのか。反民主主義的な教育もいいのか。人権侵害・人種差別を助長する教育も教育の自由なら許されるのかということです。
私はどっちをとるかというと、永井学派です。人権としての教育権を定めているのが国際教育法。日本だけの問題ではなく、世界人権宣言26条も国際人権規約(A規約)13条も教育目的を謳っているではないか。子どもの権利条約も29条で教育の目的を定めている。子どもや国民が人権として受ける教育の内容に対して、きちっとした方向付けをするというのが戦後の国際社会の基本的な立場。ユネスコ憲章のように、「戦争は人の心の中で生れるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」という名文句で始まる、第二次世界大戦に対する反省から、教育というのはとても大事だと。戦争をなくす社会、平和や民主主義、人権・自由の社会をつくっていくためには、教育というのはこれに反対するものから防御していかなければならない。そのための法規範性を必要としている。
したがって今回「改正」される内容は、愛国心であったり、日本の伝統文化の尊重というものが持っている価値が、その人の持っている人権や平和の問題に抵触するなら、それは憲法違反。あるいはその人の精神的自由を侵害するならそれも憲法違反。人権としての教育の保障に今回の「改正」内容が抵触するという論点で、批判していく人たちがかなりいます。
最後に、むすびとして
改正阻止の一点で市民の幅広い連帯を
はっきり言って、文科省の職員も、教育委員会の職員も校長も、本音は今の教育基本法を変えたくないという思いがあるみたいですね。これは私たちが育った戦後の教育の聖域というか、自分のふるさとというか、原風景というようなものなんですね。校長だってみんな教育基本法で勉強してきたわけだし、教育関係者は教育基本法へそれなりの思いがある。それが不当な政治的な圧力で、今声を出せない。もっと教育関係者が大同団結してほしいと思います。
平和の問題や人権・自由の問題で、どうしても譲れない部分は守っていこうという一点で、ぜひ市民レベルに広げていってほしい。
≪質疑応答から≫
Q)佐藤学さんは教育基本法に批判的ということですが、教育についてはどのように考えておられるのでしょうか。
A)教育の自由論者の側に立てば、法律は教育条件整備法でいいということです。教育基本法第10条2項が中心となった教育条件整備法が教育法の中心で、教育の理念や目的は学校や地域に任せるべきだと。できるだけ自分たちの一番身近なところでの自己決定で行うべき。子どもはこういうふうに教育しろなんていうことが国から下りてくるような、教育目的論はもういらないのではないか。それぞれの自治体が、身近なところで子どもや親・住民と教育のあり方を自己決定できるしくみがいいのではないでしょうか。
Q)教育というのは時の権力に利用されやすいですから、それに歯止めをかける法律が必要だと思うのですが。
A)教育基本法はそういう役目を果たしてきました。今度「愛国心」というのが教育目的に入りますと、それを受けて学校教育法の教育目標も変わって、「愛国心」が入ってきます。そうすると、教科書の検定基準や指導要領のカリキュラムも変わってくる。「新しい歴史教科書をつくる会」のような教科書が検定基準に合ってくる。「愛国心」が入ってないから不合格なんていうことになる。それでは困る。
ナショナルミニマムというのが全くなくていいのかという議論がある。条件整備はナショナルミニマムとしてかなり大事。安全とか、健康とか、学級規模とか、そういった面で最低限の教育条件を確保するという意味での教育条件整備法は国レベルで残すべきですが、それ以外の教育の理念や目的について、どのレベルを基本にするか。権利条約の精神でいえば、理念的に教育基本法的な、国際的な規約もそうですが、ナショナルミニマムとしての理念も必要だと思います。
Q)学問の場に、今 経済効率のような違う物差しが入ってきていますが。
A)バブル崩壊後、世間はとても余裕がなくなっていて、評価というものに対してものすごい厳しい見方をする社会になっている。その中に教育の評価が全部入ってきてしまった。人を育てることはそんなに簡単に結果が出るのか。教育というのはそんなに簡単に結果の出るものではない。
今、品川にいく教師がいない。どうしてかというと“針のむしろ”になっている。もともと学校評価をやっている中、さらに選択制で住民からの評価を受ける。もう完全に監視されているような状況になっている。だから教師は誰も品川に行きたがらない。それを無理やり行かされるのを“品流し”と言うんです。そのくらい品川は教師にとって魅力のない地域になってしまった。評価で監視されることは教師にとっていかに辛いことか。