2002年3月例会

松戸市教育改革市民懇話会の「これまでの経過(案)」を読む


今の松戸の教育にどういう問題があって、
その問題をどうするかというところから議論をはじめた方がいい 

r     『はじめに』のところにも、松戸の子どものことがほとんど出てないですよね。「残酷な事件が発生していることに鑑み」というのは教育改革国民会議と同じですね。「結局これははじめに結論があって、市民から委員の公募などをしてあたかも市民の声を聞いているかのようにして、国民会議のただの松戸市版を作るために開かれているようだ。本当に松戸市独自のものを考える気があるのかどうか疑問だ」というようなことを言っていた人がいます。

r        委員の中にも、今の松戸の教育にどういう問題があって、その問題をどうするかというところから議論をはじめた方がいいのではないかという意見を述べていた人もいました。

r        この「これまでの経過」を読んでいても、いったい何をしたいのかということが見えてきませんね。懇話会の話し合いの深まり方を考えると、このようなまとめを出すような段階ではないと思います。

r        これでは、どこの市にもあてはまりそうなことばかりですしね。

r        ―元気を生む教育環境と学びの感動を求めて―というサブタイトルがついていますが、今の松戸の教育は元気を生んでなくて、学びの感動がないのでしょうか。そういう状況分析をしているのでしょうか。

r        現状をどうつかんでいるのかということが、懇話会委員の間で共有されていないですね。最初のほうで松戸の教育に関するデータを資料として渡したのですから、そこで現状分析をしっかり行うべきではないでしょうか。 

本当に学力ってなんだろうという話し合いをしないで、
こういう学力の定義をぽんと出してきてしまっていいのだろうか 

r        「教師に対して日本一優しい自治体であってほしい」というのは、委員の銭谷さんが発言したのですが、その時のニュアンスとしては「先生がいろいろな仕事ができるように先生に優しい自治体であってほしい」というものだと思います。ここで書かれているように「このような厳しさに裏付けられた実践を行う教師に対し」というような限定つきの言葉ではなかったはずです。これではプロとしての誇りや厳しさを持っている先生にだけ優しくしてほしいという感じですね。

r        学力についての定義がされていますね。

r        「読み・書き・計算」も大事だけれど、今の時代それだけではないのではないか。諸外国を見ると、ドイツでは計算が早くできるということよりも、筋道立てて考えるとか、討論するとか、自分が調べた事をみんなの前で発表するとか、いわゆる話す力、議論する力、調査する力、そういうことが学力の重要な部分と考えるから、早く計算するということは学力の中でも瑣末なこととして考えられている。国際的な問題が起きた時に、いろいろな国の人たちの議論をまとめて、新たに提起する、これからはそういう力が求められている学力の一部ではないでしょうか。

r        「読み・書き・計算」が大事というのはもちろんですが、それは何のために必要かというと、いろいろな人たちと関わったり、自分が自立して生活を送ったりするために最低限の力として必要ということですよね。

r        今までの日本の高学力を支えてきたのは経済の繁栄ですね。ある程度それができればいい会社へ入れる。それが今日本の経済が傾いて、子どもたちにそういうベクトルが働かないのですよね。卒業したって就職できないし。学力高かったかもしれないけど、あの頃にも問題はあったのです。できるのだけれど勉強は嫌い、大学へ入ると全然勉強しなくなるというような問題。今のマスコミのキャンペーンのしかたは、以前はまるで何も問題がなくて学力が高かったのが、学校5日制で学力が低下するというようなことを言うのはハッキリ言って間違い。今の学習指導要領の中身だってもう覚えられなくて、どんどん学力差が開いている。今、問題になっているのは小学校の低学年段階でもう諦めてしまっている子どもがいることです。3年生で「もう僕たちできないから」といって諦めて、授業中徘徊するのです。掛け算九九ができなくて、カタカナがほとんど読めない。

r        それはその子たちの身につくまでゆっくり時間をかけていられないということですか。

r        それが大きいと思います。短期間に覚えなくてはいけないから、どうしても子どもたちは楽しさを感じられないのではないでしょうか。学習が苦役になっているのかもしれません。できる子にも苦役になっています。 

そういうふうに時間をかけられないから、
今度中身を減らしたということなのでしょう? 

r        一応3割削減といっていますが、漢字をとってみると今までは1006字なのですが、新しい指導要領でも1006字と漢字の数は変わりません。

r        いったい何が減ったのでしょうか。

r        小学校の学習内容がいくつか中学校へ移行して減っていますが、減らし方が教科特有の系統性を無視して減らしているから、本当は順序性で教えなくていけないことを飛ばしているから、子どもが混乱するので、教えざるを得ないだろうといっています。例えば国語で、人物の気持を読み取るということを低学年でやらなくていいとなっています。物語をよんだら人物の気持をやるでしょう。

r        理科で言えば、重さが今でも出てこない。重さの概念を知らないのに、算数では重さの問題が出てくる。今の子たちは、空気にも重さがあるということを知らないと思います。教わっていないのですから。これだけ系統性をズタズタにされてしまったら、いくら内容を削減されても、子どもたちの理科の知識はもっとひどくなってしまうと理科の先生たちは言っています。総合的な学習の時間が入って、その分理科と社会の時間は減らされて、小学校6年間でトータルすると音楽や図工よりも時数が少なくなってしまいます。音楽や図工は低学年からありますが、理科と社会は3年生からですから。生活科が入る前は、週3時間教えていました。結局、自然認識や社会認識は身につけなくていいと考えているってことです。

r        そういうことは一部のエリートに任せておけばいいということでしょうか。ノーベル賞を貰うような科学者を育てたいというくせに、理科を減らしているということはそういうことですよね。

r        後の人はおとなしく黙って働いていればいいと。

r        自然に親しむというけれど、自然のメカニズムやいろいろな科学的なことを学んで、はじめて「ああ不思議だな」とか驚きとかもある。

r        この懇話会の学力の定義も分かりやすいけれど、これからの時代には合わない。学力を矮小化しすぎているのではないかと思う。

r        佐藤学さんが言うには、21世紀の地球規模の社会の中で必要なのは、さっき言われたようないろいろな国の人たちと議論し、それをまとめ、新たに提起するというような力。そういう力は協同学習の中で培われてくる。読み・書き・そろばんというような20世紀型の学習はそれほど重要じゃない。

r        本当に学力ってなんだろうという話し合いをしないで、こういう学力の定義をぽんと出してきてしまっていいのだろうか。

r        「大きな学力」という本があるんですが、その中で大きな学力には3つあると言っています。一つ目は何だか忘れてしまいましたが、二つ目は自然や社会というような自分の身の回りにある社会事象にどれだけクロスできる(関われる)か、そういう力が社会に生きていく時にとても大切だと。三つ目は、問題解決能力。自分で問題を抱えた時に、どれだけ仲間と協同して解決していけるかという力が大切なのではないかと。 

「正の価値を持つ自発性」と「負の価値を持つ自発性」って何?
子どもって本当は学びたいとか、知識を得たいとかという気持を元々持っているのではないか 

r        松戸市の言う「自立した市民」というのは、自分のことは自分でやれということだと思う。だから責任という言葉が出てくる。私たちが自立した市民という時は、自分たちの住んでいる町を自分たちで考えて作って行こうというような市民をイメージするけれど、松戸市の言う自立した市民というのは、行政は一人一人の市民の細かいところまでケアしないから、自分たちの困ったことは自分たちでやっていきなさいよという、行政の援助がいらないというような自立なのだと思う。

r        なぜここでいきなり「責任」という言葉が出てきてしまうのか。そこで、関わってくるのが、最後の検討課題の部分に出てくる「自発性」の問題。

r        「正の価値を持つ自発性」と「負の価値を持つ自発性」って、具体的にどういうことなのでしょう。

r        子どもたちに自由にやらせると、いいことも悪いこともやる。そういう意味です。子どもたちに自由にやらせると、ワアワア騒いで収拾がつかなくなって課題を見つけられなかったり、自由だといって悪さしたり。そういうのが負の価値を持つ自発性ということだと思う。

r        でも、ごく一般的に「自発性」といったら、プラス方向のことしかいわないですよね。

r        「負の価値を持つ自発性」なんてないですよね。

r        子どもたちの好き勝手にやらせると、いいことも悪いこともする。だから自由に任せてばかりではだめだから、ある程度規制してやらせなければ…ということが言いたいんですね。

r        教育国民会議の第一分科会で奉仕活動の義務化を打ち出してきた論理と似ていますよね。極端な言い方をしていますが。自由にしたら学校へ来なくなる人もいるのではということも言っていましたね。強制がなければ学校教育が成り立たないとも。

r        でも、子どもってさせないと、読んだり書いたりしないのか。子どもって本当は学びたいとか、知識を得たいとかという気持を元々持っているのではないか。それを勉強嫌いにさせているのは今の教育のあり方で、強いるという部分が教育の方法としてある。時間があればもっとゆっくり教えられたら、学ぶ喜びを感じることができて、もっと自発的な意欲というものが出てきて、誰だって勉強好きになる可能性が高いと思う。それがあれだけ自己否定感を強く持っている日本の子どもたちが成長していっているのはやはり日本の教育制度または学校教育がおかしいのですね。

r        スポーツの世界もまったく同じですね。日本の最近の指導者も変わってきて、ある地域のクラブチームでは対外試合を絶対しないのだそうです。対外試合をすると、どうしても上手い子を出そうとする。スポーツって勝ち負けも大事だけれど、体動かして、友だちとパスしてシュートして楽しいよねっていう気持ちを、小さい頃から味あわせると、そうした快の感情を持った時に、内発的な動機って高まっているわけですね。内発的な動機が高まって成長した子どもって、持続力があって競技生活が長くなるんですね。何のためにということを自分で問うことができる。快の感情を大事にして指導するというのは、甘やかすこととは違います。快の感情があれば自発性って出ますよね。「する論理」と「させる論理」とわけることがそもそも違うと思います。「いいな」とか「好きだな」とか「やってみたいな」という感情を、大人がどうやって引き出すかによって、その子の自発性も高まるし、内発的な動機も高まってくるから、自ら進んでやることが増えると思う。

r        勉強そのものが目標になっていますよ。勉強はあくまでも何か他にある目標のための手段だと思う。

r        教師も強いられているところがあります。教え込まないと教科書が終わらないから、否が応でもさせることが多くなるし、教科書を教えないと自分の仕事が終わらないような強迫観念を持ってしまう。 

「子どもの権利条約」の視点がまったく見えてこない 

r        この報告案で評価できるのは、「子どもの人格の完成を目指した教育」ということが言われていること。教育基本法の第一条(教育の目的)に、「教育は人格の完成をめざし」と書かれている。

r        「子どもの権利条約」の視点がまったく見えてこない。

r        そうですね。「子どもの権利条約」の理念を意識していたら、ここで「責任」という言葉は出てきませんね。「読み・書き・計算」に「責任」って、どう考えても唐突ですね。

r        今の子どもたちに好き勝手やらせるととんでもないことをするとか、自由気ままにさせすぎだとかというような論調がありますが、そんなに好き勝手にさせていますかね。

r        以前、子どもの権利条約ができた時の松P研の学習会で、山田由紀子さんが「そんなに子どもに好き勝手させたら大変」という論調に対して「いったい日本の子どもたちがどれだけ好き勝手にできているのか」と怒っていらした。「いったいどこに子どもの自由にできるところがあるのか」と。 

児童館・公民館・図書館などの公共施設の充実ということを
なぜ懇話会で言わないのでしょうか
 

r        中高生なんか部活に入ってなかったら、居場所ないですからね。まず図書館に勉強する部屋がない。本館に少しあるだけで。だから、皆カラオケとかショッピングとか、バイトとか。

r        松戸市は、青少年を対象とした社会教育の取り組みが少ないと思う。公民館や図書館という社会教育の施設も少ない。公民館で青少年を対象とした講座というのは少ない。

r        学校5日制に伴って、地域の自治会などに子どもを対象としたイベントをしてほしいというようなことを言っているのですが、それ以前に松戸市が公民館や児童館でそういうことをしないのかと思ってしまいます。市がやらないで、地域の人たちに押し付けるのかと。

r        児童館・公民館・図書館などの公共施設の充実ということをなぜ懇話会で言わないのでしょうか。懇話会でそういうことを提言してほしいですね。

r        「教育の日」を設定するっておかしいですね。松戸市って本当お金のかからないことばかり考えますよね。

r        毎月第3日曜日は「家庭の日」ですよ。これは県が決めた。

r        通常の神経だったら、こういうことを言うのは気恥ずかしいですけれどね。 

不登校になる子どもに合わせて学校を変えるという視点は全然出てこない 

r        視点3の多様な支援を可能にする教育システムの構築というところで、不登校の問題に少し触れていますが、不登校児の親としては不満な点が多いですね。不登校になる子どもに合わせて学校を変えるという視点は全然出てこないですからね。不登校になった子どもにどうしようかということには触れているけれど、どうして不登校になるのかということにはまったく触れていない。

r        それに、学校復帰に向けて懸命に努力してない子どもはだめな子という感じがしますよね。

r        復帰に向けて努力してない子どもには何もしませんよという感じを受けます。

r        なぜ不登校の子どもが出てくるのかという背景について検討しましょうとか、どの子も楽しく通える学校にしましょうとか、そういうことを言ってくれても良いのに。

r        勉強がわからなくなるというのも大きな原因ですね。

r        本当に勉強が苦役になっています。

r        不登校の子どもの居場所作りは行政がイニシアチブをとってやってほしいと思います。この適応教室というのは、私も見学したことがありますが、そうした居場所としては作られていませんね。 

学区自由化したら、絶対地域と学校との連携はできなくなりますよ 

r        学校は利潤を生んでいるわけではなくて、人を育てているのです。学校に数値目標を設定してそれを達成させようということになると、数字に振り回されて、子どもたちにそのしわ寄せが来てしまいます。

r        何のために評価するかということですよね。子どもたちがどれだけ楽しい顔をして学校にいるかというのが一番の評価だと思うのだけれど。

r        学校を拠点とした地域づくりというのは、無理があるような気がするのですが。

r        阪神淡路大震災の時は、やはり学校が拠点でしたよね。

r        昔その学校を卒業した人、子どもがその学校を卒業した人というところで、学校には地域の人たちの愛着があるだろうし、町の区分けを考えた時に学区がひとつの地域の単位になっている。そのくらいの地域が歩いていかれる大きさで、日々の交流もある。小学校区というのは地域の単位としては交流しやすい単位だし、その大きさの地域の中心になる場所に小学校がある。地理的な意味でも中心になりやすいと思う。

r        学区が自由化されて、周りの地域の子どもたちがその学校に通っていなくって、他のいろいろな地域の子どもが通ってくるとなると、そこでコミュニティを作っても構わないけれど、そうしたら学校とその周りの地域の人たちの関係はどうなるのだろうか。学校と地域がまったく関わることができなくなるのではないだろうか。自分の子どもが通っていなかったら、その学校と関わるだろうか。PTA会員の地域もばらばらになってしまう。子どもだって地域に愛着なんてなくなってしまう。

r        学区の自由化はしてほしくないですね。学区自由化したら、絶対地域と学校との連携はできなくなりますよ。

r        自分たちの子どもが通っている学校を守ろうとか、子どもが育つ場所をよくしようとか、我が子のことだけではなくて、その学校に行っている子どもたち皆のことを考えるのがPTAだと思うけど、違うところから来ている子どもたちのことも一緒に考えていこうというふうに、もっと広く考えなくてはならなくなる。

r        地区委員なんて選べないね。その他の地域から来ている人という枠を作ればいいのかもしれないが。

r        皆で話し合って学校を良くしましょうということをしなくても、その学校を気に入らなくなったら違う学校に移ればいいというふうになる。例えば、校内暴力の問題が起きた時、それを皆で解決しようというのではなく、校内暴力のない学校へ移ろうと。学校選択ということは、できあがったものをどちらが良いかと選んでいくわけだから、自分がより良いものにしていこうという参加の仕方はなくなっていく。

r        一緒につくるという視点がなくなってしまう。

r        「先生ちゃんとやってくれないと困る、せっかくちゃんとやってくれると思って来たのに。話が違うじゃない」ということになってしまう。

r        選べるということって本当にいいことなのでしょうか。