2002年4月例会報告
学校週5日制完全実施で学力低下って本当?
お話:山本知巳先生
≪5日制が始まってまだ3・4週間しかたっていませんが、本当に忙しいですね≫
4月というのは忙しいに決まっているのですが、特に教育課程が変わって、1週間の時程どりがグチャグチャです。時数合わせがとても大変です。例えばうちの学校では、3分の1ずつ週3回で1時間の学活としています。でも休みなどがあると、3分の2時間というふうに整数にならない時があって、足し算するのがだんだん大変になってきます。工夫してなるべく1週間で整数にしようとしていますが、難しいです。
また、うちの学校の日課表は1年間通しの日課表としていますが、他の学校では毎週変わるとか、学期で変わるとか、様々です。なぜそういうことになるかというと、文科省は学校で授業ができるのは年間で35週であるとして、1年間の標準時数というのを告示で出してきます。例えば、今までは社会科は週3時間、つまり3x35で年間105時間でした。でも今度はほとんど35で割り切れない数字を出してきました。ですから毎週同じ時間割でやると多くやりすぎたり、足りなかったりします。だから毎週違う時間割にしたり、学期ごとに変えたりということをしなければならなくなったのです。それを記録していくのも大変だし、子どもも混乱してきます。ですから、うちでは工夫して1年間通しの日課表にしました。そのかわり、総合的学習の時間は週に3コマとらなければならないのですが、3コマ取ると1年間通しの日課表ができなくなる。それで、「国語/総合」というように抱き合わせにしています。
こんなふうに様々な気苦労があります。それに土曜日がないと、1週間がすぐに終わってしまうような気がします。気ぜわしい感じです。高学年では1週間に27コマですが、それは6校時に授業をやらなくてはならないということ。6校時になると寝る子どもがいます。疲れて無理もないのですが、6校時に普通の授業はできないです。
≪今の子どもたちの様子≫
今もっとも気になっていることは、幼児性という問題です。特に男の子の幼児性は、ものすごいものです。5・6年生を担任することが多いのですが、卒業するまでにどのくらい成長してくれるかと見ているのですが、あまり成長しないですね。そういう話をすると中学校の先生も、中学校でも同じような状況だと言います。中3になっても幼児っぽいのがあまり直らないという感じだそうです。先日本屋で立ち読みした本の中にも、「男の子が幼稚なのはしかたがない、男の子は学齢を1年遅らせたらどうか」と書いてあって、妙案だと思ってしまいました。高度に発達した資本主義社会に共通して男の子の幼児性という問題があるのかなと思っています。
幼児性が強いなと思うと、大人っぽいと思うこともある。そのアンバランスさが非常に目立ちます。そういうところをどう見ていったら良いのかという問題があります。
≪3割削減でどうなったか≫
3割削減で一体どういうふうになったか、具体的に触れてみると、
算数で「整数の足し算、引き算で3桁・4桁の計算をやらなくする」
4桁の計算は完全にやりません。4桁の計算をやらないというのは、2回引き算をして答えを出すというのがわからなくなります。例えば3001−295という計算。こういう形の計算は全く扱われなくなります。これは整数の引き算では非常に重要な形なんですけど。そういうことがたくさん起きてきます。
5年生の小数の掛け算。小数第1位までしか掛け算をしないということになりました。
2.1 x3.6 126 63 7.56 |
2.34 x3.6 1404 702 8.424 |
小数の掛け算は、小数点以下の桁数を足して、小数点の位置を移動するというものですが、小数点第1位どうしの計算だけでは本当にそうなのかということが疑わしい訳です。右のような計算もやって始めてそういう法則が確かにあるのだとわかるのです。やり方を頭ごなしに教えて覚えるのではなく、法則が確かにあるという検証をしていく作業が大事だと思います。右のような計算はどこで教えるかというと、どこでも教えません。小数の計算は左の計算ぐらいを教えておけば後はできるもんだという何とも言えない非科学的な発想になっていますね。こういうことはかつてありませんでした。整数の掛け算のところでも3桁x3桁を教えない。だから当然この問題も教えられないのです。円周率はだいたい3と教えればいいのではないかと言われてましたが、教科書では3.14になっていました。でも、小数第2位の掛け算を教えてないのに、円の面積を出す時に3.14の計算をしなくてはならない。この矛盾をどうするのかということを全く説明していません。現場では、小数第2位までの計算を教えています。
分数は大きく変わりました。同分母の足し算・引き算を4年から5年にもってきました。帯分数をやめて真分数だけになりました。分数の繰り上がり・繰り下がりをやらないということです。小学校でやらないということは中学校でもやらないということです。6年で異分母の足し算・引き算をやるのですが、ここでも帯分数はやりません。
図形も大胆に削除されています。子どもたちは数量関係よりも図形の方が弱いのですが、それは、生活の中で立体的なものや図形的な感覚が減退しているために、形が見えないというのが一番の原因だと思います。5年の面積の所で、台形の面積はやらないということになりました。平行四辺形を切ると台形ができて、それが2分の1になるんだという非常に魅力的な、公式が出るのがすごいということがわかるところなのですが。台形2つをひっくり返して合わせると平行四辺形になる、だから半分なのだということがみごとに分かるんです。とても面白いところなのです。
体積も6年生で始めて勉強します。円柱や角柱の体積はなくなりました。直方体と立方体しか教えません。これでは体積の意味をつかむことは出来ません。垂直に立っている柱形の立体の体積は、どんな形であっても底面積x高さで出るのだということが分からない。これでは面白味もなく、体積をやったことにもなりません。
もう一つ大きな特徴は、Xとか□とかが小学校からいっさいなくなりました。以前は小学校でこうした未知数的な発想を知るのは大事だと文科省はさんざん言ってきたのに、今度は全部中学校に上げてしまって、文字という感覚は中学校で始めて勉強することになりました。算数から数学への橋渡しの時に子どもたちが一番つまずくのは文字式なのです。
算数だけでなく理科でも国語でも、3割削減というが、何を削減すべきなのかということが全くめちゃくちゃですね。何か工夫して時間が減ればいいという感じです。理由にもならない理由で削減されています。
国語では発表とか、話すとかそういうことが非常に重視されるようになりました。その結果、何が削られたかというと、文学です。文学の授業をちゃんとやらなかったら子どもは育たないんですよ。文学をきちんと勉強して、人間の見方などを勉強するんです。文学を軽視する言語教育というのは非常に危なっかしいと思います。人間というものを学習させないという、思想的な匂いのする施策だと思います。
中身が非常におかしい学力形成になっていくということの方がより重要な問題だと思います。こういう形で新課程が出されてきていますが、現場ではその通りにやったのでは大変だから、いろいろ話し合いをしています。我々の学校では、なるべく新課程のマイナス面が出ないようにしていこうと話し合っていますが、全国的には心配が多いと思います。
≪子どもたちがどうなるか≫
3割削減をするとか、5日制にするということの文科省の旗頭は『ゆとり』をつくるということです。ゆとりを作るというのは今始まったことではなく、実はこの10年ずっと言ってきているし、その前の10年も言ってきている。ゆとりということを言い始めて20年もたっているのです。この20年間に、子どもにどういうことが起きてきたかということを様々な人たちが、特に教育社会学の先生たちがいろいろ調べたり、データの分析をしたりしています。
結論からいうと、「勉強しなくなったということが統計上にはっきり出てきている」と言われています。『学習からの逃避』というような言い方をされています。
そういうことが、文科省が『ゆとり教育』を推進してきた20年間の中で起きていると見なければなりません。今回の2002年からの教育課程も『ゆとり』というのが大きな柱になっていますから、そういうことはこれからも更に増幅して起こるだろうと予想されます。ですからこの20年間を見てみることが大事だと思います。
東京都の中学校2年生の家での勉強時間の推移を見ると、家に帰ってぜんぜん勉強しない子どもが急激に増えています。特に98年には43.2%になっています。家で何をしていたかという生活時間の変化を見ると、テレビとゲームの時間がどんどん増えていることがわかります。そして、本を読んだ時間というのは下がっています。要するに勉強はしなくなっている。
刈谷剛彦さんが『教育改革の幻想』という本の中で、刈谷さんたちが独自で調査した結果をもとに、ゆとり教育で誰に一番被害があったかということを解明していますが、その中で刈谷さんは「この20年間のゆとり教育の中で、成績が振るわない子に勉強ばなれが集中的に起こった」と言っています。
もう一つ『学力剥落』というのが大きな問題になっています。つまり勉強したことが剥げ落ちて、忘れてしまう。どのくらいのスピードで忘れてしまうのか。各国の市民の科学の知識や関心のレベルを比べたグラフがありますが、日本はどちらも最低レベルです。この市民というのはどの年代の人たちかというとだいたい私たちの年代なんですよ。30代から50代の人たちなんです。この年代の人たちの中学時代の学力ランキングは世界一だったんです。その人たちが40才・50才になったら、びりになってしまう。この論文を書いた教育社会学の先生は、日本は世界一『学力剥落』の高い国だと見なければならないと言っています。
最初に「学力低下」と騒いでいる人たちは誰なのかということが問題だと言いましたが、そもそも大学の学生が分数もできないと言って騒いで、それを本にしました。その本が爆発的に売れて『学力低下』の社会的なセンセーショナルを巻き起こしました。彼らは、「ともかく試験制度が悪い。入学試験が簡単になって、子どもたちが勉強しなくなった。もっと入試を厳しくしなくてはいけない」と主張しています。でも、先ほど言ったように学力剥落しているのは、40代・50代の人たちです。この人たちは共通一次と関係ありません。昔からこうなんです。受験科目が多い少ないということとは関係ないと。今問題なのは、勉強があまり得意でない子どもたちに勉強離れが広がっているということ、そしてその結果 学力に非常に大きな格差ができてしまったことだと彼は言っています。とても良くできる子と、とてもできない子が増えてしまって、中くらいの子が減ってしまったというふうに格差が広がってしまった。そして、一定時期良く覚えるけれど、社会に出るとどんどん忘れてしまうという日本の学力というのが問題だと言われています。
それが『ゆとり教育』推進の中で起こったのです。この『ゆとり』というものは一体誰のためのものであったのか。今、企業は「ハイタレントの人間は何%しかいらない」とか、「エリートは3%くらいしかいらない、後はただ普通に働いてくれればいい」とか言っています。「できない子が増えても別にいいんだ」と公然と言う人もいます。『ゆとり教育』には実はそういう狙いが隠されているとも言えます。「もう競争はしなくてもいい。勉強しない子はしなくてもいいヨ」と。
これまでお話したような、様々な角度からいって、「学力が低下するか」と言われれば、「そういう意味で学力は低下するのではないか」と思われ、心配されるところです。
学校ではどういうふうにするのか、文科省の言いなりではなくて、どうやって子どもたちに学力を保障するのかということを教職員が自分の頭で考えてやらなければならないと思います。
≪そもそも子どもにとって、学習や学力ってどういうものだったのか≫
一つは、学習とか学力というものは子どもたちの生活とつながっているということがとても大事なこと。子どもたちの生活から切り離れて、浮いてしまっているような学習・学力というものは到底子どもの実にはなりません。以前、国語の勉強で、新美南吉の『影』というお話しを学習したのですが、これは月が真上に上がっていた時に、寝ぼけたカラスが、自分の影をもう1匹のカラスと間違え、言いあいをしているうちに「どっちが早いか勝負しよう」ということになって、ゴールと決めた山まで飛んで勝負していくというお話です。新美南吉の設定は素晴らしくて、月が真上にあるから影は真下にあるんですね。死ぬ思いでとんでも勝負がつかないのです。そして翌日の朝、1羽のカラスが死んでいたというお話。これは、全力を尽くすということは何なのかということを教えているようにも思います。実は無意味な全力だったのに、それに気づかずにやる、人間にはそういうことがあるのではないかといっているようにも思います。このお話を読み終えて、ある男の子は「このカラスは影と競争してしまって、本当は意味なかったかもしれないけれど、一生懸命やったんだから良かった。悔いはなかっただろう」と言ったのです。びっくりしましたね。結構他の子どもたちもそれに賛同するんですね。ちょうどその頃から、子どもの生活の問題として、子どもはなんでも一生懸命に取り組む、また取り組ませる。だけど何の意味があるの? これは一生懸命やる価値があるの? そういうふうに吟味して人生を頑張るのではなくて、ともかく何でもいいけど一生懸命頑張ればそれが一番いい。そういうことが社会に広がっていた時代だったんです。そういうことを反映しているのかと思いました。
子どもたちと文学の勉強をする時には、それが子どもたちの生活とつながっていたり、離れていたりするのかということを大事にして学習していきたいと思っています。
二つ目は、算数の話です。正三角形をたくさん用意して、その正三角形を使って立体を作っていくのですが、最初は3枚使って正四面体と簡単なんです。立体ができたら、それを切って広げて展開図を作ります。「次は、何枚かな」「何ができるかな」ということを予想しながら、実際に作っていきます。正八面体まで作って、「次は何かな」となるとなかなか難しい。「正八面体と正四面体を良く見てみよう」とヒントを与えると、そこには何か法則性がありそうだと気づきます。正八面体というのは一つの頂点に正三角形が4つ集まっています。正四面体はどこの頂点にも正三角形が3つ集まっているのです。どこの頂点にも三枚ずつ集まるように作ればいいのです。ここまでわかると、子どもたちは「次は5枚だ」とすぐわかります。作るのはとても大変ですけれど、やっとの思いで子どもたちは作ります。それが正二十面体です。子どもたちは嬉しくなって、「次はどうなる?」と考えます。「次は6枚だろう」「そうだ6枚に違いない」と。そうしたらある子どもが、「先生違います。6枚はできません。正三角形の一つの角は60度でしょう。6枚やったら、360度で平面になってしまいます」と言います。この最後の部分が非常に数学的だったんです。「上手くいった。いい勉強になった」と思って、子どもたちに感想を書かせたら、「普通の算数じゃなかったみたい」とか「最初はなんか変な勉強と思って、ただ貼ってて意味ないと思ったけど、すごく面白かった、楽しかった」という肯定的な感想の多い中で、「はっきり言って、なんか良くわからなかった。何が良くわからなかったかと言うと、何を勉強したのかが良くわからない。多面体を作って楽しかったといえば楽しかったけど、何を勉強すればいいのかわからなかった。正多面体になるのは全ての角が同じ分だけの辺が集まっていれば正多面体になるという法則は分かりました。でもこの勉強して、何のために勉強したのかがわかりませんでした」という感想を書いた子がいました。この子は、6枚では立体にならないということを発見した子でした。算数の勉強は何かまとめがあって、目的が非常に明確で、覚えることもあって、というものだと思っているんですね。僕はこういうのが数学の授業だと思ってやったのに、これを授業だと思えなかったんですね。数学の魅力とか楽しさとか、「ああ数学ってすごいね、こういう法則があるんだ」と、何でもないところにも数学の法則がちゃんと貫かれていてすごいなと思ってもらいたい。そういうふうに算数・数学の学習というものをとらえて、自分の生活に生かしてほしい。不思議・おもしろい・素晴らしい・発見、そういうものが学習なのであって、そういう本当の学習をいかにたくさん子どもたちと協同でつくっていくかということが、学習・学力といった時にとても大事なことだと思います。
そして最後に、もう一つ。以前とても顔に表情がなく、教室で全然笑わない5年生の男の子がいました。皆が笑っていても、その子はぜんぜん表情を変えません。どうしたらその子を笑わせることができるかなと思っていました。どうしてだろうと思ってました。授業が始まっても教科書も出さないし、ノートも出しません。ぜんぜん授業にのってきません。家出などの問題もいろいろありました。2学期になって、子どもたちにも詩を書いてもらう授業をしました。その子はなかなか出してこないので、やっぱり書かないのかと思って、その子の近くまで行って見たら、何と詩を書いているのです。出さない訳は、2つ3つと書いているためになかなか終わらないからなんです。びっくりしました。
「亀」 |
こういう詩でした。その子そのものなんですよ。小さい時から家庭で様々な問題を抱えていて、本当に「助けて」って言ってる子なんです。その時初めて自分から、3つも次々と詩を書いて、その時を境に教科書もノートも机の上に出るようになったのですよ。不思議ですね。僕らはこういうのを勉強してほしいとか、算数も今日帰ったら復習してほしいとか、そういうことばかり考えていますけれど、子どもは自分にとっては勉強とか学習とかというふうに思い当たる時というのは、教師が考えていることとは関係がないのだと思う。例えばその子が詩を書く瞬間に、何か「これが自分の勉強」と思ったんです。だからその時を境にして、勉強もするようになったんです。子どもが学習に向かう瞬間というのは、その子その子で違う瞬間であったり、僕らが集団的に勉強させていても、ひとりひとりに違う思いで学習が受けとられたりするのではないかと思いました。こういうことも大事にしながら、学習に取り組むようにしたいと思っています。