2001年12月例会
問題を起こした子どもたちとどう向き合うか
お話:栗村百合子さん

《問題行動を起こすということは子どもたちのSOS》

 まず問題というのは何なのか、子どもが問題を起こしてくると大人としては何とかしなくてはとか、問題を起こす前に戻そうとかいうふうに気持ちがいくと思うのですが、そうではなくて、問題行動を起こすということは子どもたちのSOS、その子の中で何か訴えたいことがあって、でも普通の形では表せなくて、そういう形を借りて出したSOSだと思います。私が家裁にいた頃、『非行の階段』といって、消しゴムを盗ったなどという小さな万引きから始まって、だんだん自転車を盗った、シンナー・暴走族、強盗と非行の質が悪くなるというのがほとんどでした。でも最近は『いきなり型』の非行という、本当に普通の子だったのに、普段のその子と起こした事件とのギャップがすごく大きいということが増えてきています。でも丹念に拾っていけば、きっと小さなSOSを出していたのかも知れません。でもその小さなSOSがキャッチされないことが何回か続くと、キャッチされないことに慣れてしまって、SOSを出すことも諦めてしまうという形で事件が起きてしまうと、大人の目には『いきなり』と映るのかもしれません。全体から見ると、大人の側のキャッチする能力が落ちている社会だと思います。

 問題行動は困ったことではありますが、それを出すことでその人が何とか生きていられるというか、バランスを取っていられるということもあると思います。問題を起こすときというのは、たまたまその時というのではなくて、起こすべくして起こす時というか、本人が何となくやってきたけれど、何となくこのままではやって行けないというか、どこか状況を変えたい、自分も変わりたい、その時だと思うのです。せっかくそういうタイミングに出してくれたので、うまく受け取る人がいたら、チャンスに変えてくれるいい時なのだと思います。 

《事実を丹念に拾っていくと、そこにこめられた意味が少し透けて見えることがある》

 どう受けとるかということですが、意味のない行動はない。意味をどう見つけようとしていくかということだと思います。特に非行の場合は、誰が悪いと非難し合いがち。考える方向が悪者探しに終わってしまって、子どもの発するSOSを受け止められていないという結果になることが多いような気がします。何が悪かったのかではなく、どういう意味があったのかということが大切。例えば、万引きをした時、いつ、誰と、どこで、何をという事実を丹念に拾っていくと、そこにこめられた意味が少し透けて見えることがある。とってきたものをどうしたのか、隠して使ったのか、それとも見つかってしまうところにポンと置いていたのか。普通の感覚からいうと、見える所に置いておくというのは腑に落ちないところがあって、わかるところではなくて腑に落ちない所に割とヒントがあることが多い気がします。話していて「あれ?」と思ったことを大事にしていくことが、近道だと思います。SOSの意味がわからなくなる時というのは、一度万引きをすると万引きをした子になってしまって、そうでないその子のいろいろな面が見えなくなってしまうことがあると思います。

子どもを見る時、一面的に見るのではなく、丸ごと見るようにする。嘘をつく子、万引きをする子、優しい思いやりのある子と、修飾語をつけて子どもを見てしまうと、それ以外の面を見えなくさせてしまうし、子どももそれ以外の面を見せづらくなってしまう。

 じゃあ、その子とどう関わっていくのかというと、まずその子とどう一緒にいられるのかということが大事なのです。カウンセラーも親もそうなのですが、子どもが苦しんでいたりすると、何かしてあげなくちゃとか、何かいい案を出してあげなければいけないとか、助けてあげなくてはいけないと、気持はどうしても動くのですが、そういうふうに動く時は関係がつなげないことが多いと思います。とりあえず何がしてあげられるかというのはちょっと置いておいて、その子にどう寄り添うかということが大事。難しいけれども、何も口をはさまないで話を聞くことが大切。何をするという訳ではなく、誰かと一緒にいてホッとする時間を持てることってとても大事。それと、私は、その子の得意なこと、好きなことで繋がれるパイプを探すことを心がけています。 

《その子の痛みをどう実感をもって理解しようとするか》

 何とか関係を持てたら、その子の痛みをどう理解していこうかということになりますが、私がそういう子たちに会う時に自分の物差しとして持っているのが、横の視点と縦の視点、バランスの視点というものです。

 横の視点というのは、その子が身を置いている家庭や学校、地域などのシステムの中でどういう立場にいるのだろうかという視点です。その子だけが突出して何かをするのではなく、システムが抱えている問題などが弱い所に出てくるということがありますから。社会が悪いからしかたないということではなくて、親も学校も一生懸命やってもこぼれおちていくものがあるということです。どの人も抱えている痛みがあるという意味で見ていただければいいと思います。人間が『モノ化』しているなということを非常に感じます。家裁にいた時、先輩が「いつの頃からか“子どもを授かる”ではなく、“子どもをつくる”と言うようになってきて、その頃から子どもが変わってきたような気がする。通じなさができてきた気がする」と言っていました。作ったものだとすれば自分の思い通りに動いてくれなくてはイヤですよね。これだけのことをすれば子どもはこうするはずで、それをしないのは子どもがどこかおかしいんだという感覚が、今大人の中にすごくあるのではないかと思います。人が『モノ化』すると、役に立つかどうかということがとても大きくなってきます。
 縦の視点というのは、子どもがこれまで生まれてからどういう中で生きてきたのか、どういうことを獲得してきたのかということを見ていく視点です。

子どもは行きつ戻りつしながら、ジグザグの道を辿りながら発達課題を乗り越えていきます。どこかの段階をとばしていくということは、人間としてどこかに無理がくると思います。家裁にいた時によく感じたのは、乳児期に誰か大人にかけがえのない存在として可愛がってもらった、大事にしてもらったということが薄いなということです。

 思春期の時代は中間決算の時代です。嵐の時代でもあるし、本人も何かやりきれないものがあって、見える形で問題を出してくると思いますが、それ以前のことで何か足りなかったことをそこで何とか取り返そうとしているのです。思春期は揺れているだけに取り返しやすい時期でもあります。そういう感覚を大人が持っていると、子どもももう少し楽だろうなと思います。

 じゃあ今その子がどういうバランスなのかというのがバランスの視点です。自分がこうしたいというのと、でもこう期待されているということとの中で、ではどうするのかということを大人も日々両方の中で選んで決めて生きていますが、そのバランスがとれた状態は楽な状態だけれど、バランスを取り損ねる時があります。問題行動を起こす子というのは、そのバランスを激しく取り損ねている状態だと思います。人間の悲しいところなんですが、一度バランスを取り損ねないと正しくバランスを取れないということがあります。どれだけいろんなバランスを取れるバリエーションが自分の中にあるかということが生きていく力になっていくので、失敗すればする程生きていく力はついていくかもしれません。不登校の子どもたちを見て感じるのは、失敗するチャンスをもらってなかったというか、ねばならないということにずっと合わせてきて、そのうちに自分の内なる声が聞こえなくなってきて、苦しい中にいる子もいるような気がします。

 むかいついたり、これは正当ではないとか、これはイヤだとか、そういう湧き上がってくる気持は当たり前のことで、それをだめだとフタをしてしまっても、湧き上がってくるものだから、フタをすることだけでエネルギーを取られて疲れ果ててしまうし、フタをして無いことにしてしまうと見えない所で繁殖してしまうし…。大人が思っている以上に子どもは簡単にフタをします。大人が保護してくれないと生きて行けない存在なので、まわりの大人がどう感じているかということに対するアンテナは鋭いです。その中でこれはフタをした方がいいと判断したら、簡単にフタをしてしまいます。フタをしなくてもいいんだよ、そういう気持は当たり前なんだよということがあると、じゃあそういう気持を持っている自分をどうしようと次へ行けると思います。自分の影の部分、マイナスの部分も自分の中で統合していける、自分の中で縦割り状態にならずに行けると思います。

子どもの気持がわかるよと話を聞いているだけではなくて、でもやはり社会の中ではここからはダメという、そういう壁のような存在も大事なんだと思います。身を挺して引き止めることも大事だと思います。 

《問題行動を繰り返す子どもに対するむずかしさ》 

 反社会的な行動に対しては、大人たちは秩序というか枠の中で生きていますので、その枠を壊されるという恐怖・不安というのがあって、どうしても放っておけない、すぐ「何とかしないと」と大人は動いてしまいます。いけないと禁止したいし、でも理解もしたい、そうした葛藤状態になります。個人の中でもそうですし、先生集団の中でも葛藤があると思います。抑えようと思っても抑えられなかったり、話し合おうと思ってもうまく話し合えなかったり、どちらをとっても 親も含めてまわりの大人がどんどん無力感の中に引きずり込まれていく。その葛藤状態を大人がどう持ちこたえられるかということがとても大事だと思います。大人自身がゼロか10ではなくその間の分からないところにどれだけ踏みとどまれるかというのが大人であることの一つの指標だと思います。 

家裁だと非日常の場面なので距離を置いて見ることができます 

 家庭裁判所での経験からいうと、家庭や学校という日常の場でいきづまって煮詰まっている場合、第三者が入ることでちょっと糸口が見つけられるということもあるかと思います。ただ持っていき方や持っていき先に問題があるかなと。学校は日常生活の渦の中なので、本人も大人も渦から身を引いて見ることができない。距離を置いて考えたり、見たりすることができない。家裁だと非日常の場面なので、本人も大人も距離を置いて見ることができます。罪を犯してくる子どもは家裁に連れてこられることをある程度納得しているのですが、ぐ犯少年といって、非行というわけではないけれど放っておくことはできないとされる子どもたちは、なぜ家裁に連れてこられるのかということをどれだけ本人が納得できているかということがあります。家裁に連れて来られたことが、捨てられた状態、学校からも見放されたからここに来ているんだと思っていると、とても難しいんです。やむを得ず他者の関わりを求める時にも、一緒に考えたいからということをその子自身が納得できるように大人が説明する義務があると思います。では誰に入ってもらうかという時に、今は警察に安易に行くしか手段がないみたいなところはおかしいと思います。もっと前の段階に他の機関に入ってもらうことはできないのか、今日本にはシステムとしてなかなかないのですが、社会全体で考えていかなくてはならないと思います。

 実際家裁に行く場合は、たいていは書類だけきてそれから3〜4ヶ月して呼び出しが来ます。身柄が拘束される場合は、書類と一緒にその子もきて、その子は鑑別所に入ります。そこで調査官に調査命令がきて、とりあえず調査官がその子に会います。その子が在校生だと学校へ行って話を聞くこともします。学校へどう返していくかということは大事だと思います。調査官によっては学校へ話を聞きにこない場合もありますが、その時は学校の方から連絡をとって働きかけてもらうのも大事だと思います。大人の場合は、裁判所まで行かないで不起訴になる場合もありますが、少年事件の場合は必ず家裁に送られてきます。それは少年法のしくみが刑罰を与えることを目的とした法律ではなく、少年の健全育成ということで、事件は子どものSOSなのだから最初の小さなSOSをきちんと受けとめて行こうということで、全件送致主義をとっています。私が家裁にいた頃は第3のピークで事件がとても多く、1人の調査官が100件200件も抱えていて、だからその子を呼び出すまでに2・3ヶ月かかってしまって、家裁に来る時点でもう3・4ヶ月かかっていますから、事件から半年後ぐらいに呼び出されて『あれ?なあに?』という感じになってしまいます。最初のSOSをどう受けるかが大事なのですが、そこのところがボロボロ落ちていく現実は確かにあります。

家裁に行くと大変なことになるということではなくて、ほとんど8〜9割は調査官が会うだけで審判も開かないで終わる『審判不開始』だったり、審判は開くけれども裁判官が会って話してそれだけで終わる『不処分』だったりで、8〜9割はそれで元の生活に戻って元の場で何とかやるということが多いです。社会に帰るけれども、今まわりにある守りだけでは不安だからということで『保護観察』がつくこともあります。少年院に行く子どもは本当に少ないです。

 うまく学校と連携がとれて、第三者の関わりでまた違う道が開けるのかもしれませんが、どう連携を子ども本位でつなげていけるかどうかが大事だと思います。 

《フリートーキング》

問題を抱えている子どもが地域にいた場合、どこに誰が相談しに行けばいいんだろうと感じることが多い。先生も忙しくて余裕がないし、あっても気持がないのかもしれない。ケアが必要だと思っても先生も学校も手を出さないような感じがして、信頼できない。家裁と学校との連携という話があったが、連携しようと思った時に学校が動いてくれるのかなという疑問があります。学校がちゃんと機能してくれるのかな。

先生というのは、子どもがどういう家庭でどう暮していて、親がどういう苦しみを抱えているのかということを、家庭に踏み込んではいけないというようなところで、わかっていないことが多いですね。本人の秘密は大事にしながらも、こういうことがあって本人もつらいし親もつらいというようなことを知ると、その子に対する見方が変わるんですが。学校の先生自身が支えのないところにいますから、先生にも支える人が必要ですね。
今高校にいるのですが、小・中の時にその子に必要な援助がもらえないで来て、高校を卒業して社会に出て行く時になかなか就職試験に受からない、社会にこぎ出す船も大人は与えないのかと、無力感を感じますね。
私も、この子には何かケアが必要だなと思いながらも何もできないで、認知しているけど手の出しようがないということがとてもあって、どうしていけばいいのか、親のネットワークをどう作るかということではないかと思います。親の生活史を聞くと、親自身が大人から助けられていない。その親の親もそう。だから親に代わるものが必要だったのだと思います。子どもたちと会って話を聞いていても、登場する大人は親と先生しかいないですね。近所のおばちゃんがとか、親戚も遠いんで、出てこない。親も先生も生身の人間なので、至らない点、弱い点など必ずあるんです。2人しかいないとすれば、弱い面が似通っていたりすると、その子へのダメージがすごく強くなってしまいます。昔と比べて親も先生も力が落ちたわけではなくて、昔だってほったらかしの親はいっぱいいたけど、それを補い合うものがあったと思います。今は、大人同士関係を結び合うのが下手になっているかもしれませんね。

私自身、親との関係は良くなくて、子どものころ母親から「あなたなんか嫌いよ」と言われたのはどうしてだろうか、というような思いを抱きつづけてきた。なぜ非行に走らなかったのかと考えてきたけれど、非行に走るには気力・体力・経済力が必要。私にはそれがなかった。そういうふうに考えてきた。でも、事件を起こした少年の思いをわかってしまう自分がいる。

少年事件が起きると、その時は皆大騒ぎするけれど、今はまたかと思ってしまう。社会が悪い、学校が悪い、家庭が悪いと皆で犯人探しをしたがっているだけで、少年がどんなにしたかったのかという思いなどを受け入れるところはないんだなと思います。地域でそういう子どもたちとどう接していけばいいのだろうか。

親や先生同士支え合うネットワークが本当に今必要だと思います。

私は40歳過ぎた時から、地域のお節介おばさんにんなろうと決めました。子どもが自分の身の危険を感じた時に「おばさん助けて!」と言える存在がたくさんいればいいと思います。

PTA活動に積極的に関わると、子どもたちと顔見知りの関係になれる。地域の子どもたちや親たちといい関係を作るためにもPTAって大事ですよね。

親のネットワークづくりもPTAが担わなければいけないんですね。

一番伝えたい人はPTAに参加してこないというように、伝えたい人になかなか伝えられない。そこが難しいですね。

自分の親の子育ての時代と自分自身の子育ての時代状況には大きなギャップがあって、私たちの子育てにはモデルがありませんね。前の世代までは、自分の親たちがやってきたことをある程度真似していれば済むところがあったでしょうが…。例えば、テレビゲームをめぐっての一悶着は、親の世代では全くなかったでしょうし。大人もすごく迷って苦しくて、自分が何でも言い合える友だちがあるというのが財産でしょうね。子どももそうです。声をかけてもらえるのを求めています。自分のためにエネルギーを使ってくれると感じるのでしょうし、そのエネルギーは確実に子どもに伝わると思います。迷いながらもエネルギーをかけていくしかないでしょうね。機械だとエネルギーを使えば使うほど磨耗しますが、人間はエネルギーを使っただけ疲れていくわけではなくて、新しい自分に会えたりもします。私自身もそうなのですが、エネルギーを出し惜しみするところがあります。それは自分を機械のようにとらえているところがあるのかもしれません。関わって嬉しかった、楽しかったという小さな積み重ねが、関わりを避けているお母さんたちには小さいころからなかったのかもしれません。そういう小さな経験を積み上げていくしかないのかもしれません。

少年法で守るべき少年は、今19才以下ですが、その年齢についてはどうお考えですか。

私は、19才までは少年だと思います。1日でも20才を過ぎると家裁では関わることができません。19才ぎりぎりで家裁へ来るケースは結構多いです。育ち落としてるところがあればあるほど、できるだけ長く取り返すチャンスを、年齢が長い方いいと思います。改正される前の少年法でも、あまりにも事件が大きかったり、事実で争ったりする場合は、年長少年は検察官に戻せるんですね、大人扱いでって。そうすると大人と同じように刑事裁判を受けます。それを例外ととっているのか、少年法が変わって原則になってしまうのか、その違いは大きいと思います。

「寿命が長くなると成人になるのに時間がかかる」ということを聞いたことがあります。人生50年が平均だった頃の20才と人生が80年になった時の20才では、育ちに時間がかかるはずだと。

20才までは少年法で守られているからいいんだとうそぶく子どもがいるという報道がありますが、そんなふうに考えて事件を起こす子どもはいないと思います。非行というのはとても傷つきますから、自分を投げるところがありますから、刑務所でなくても失うものはとても大きいです。それでもそうせざるを得ないということを考えると、「これを失いたくないな」と子どもに思わせるものを作ってあげたいなと思いますね