PTA学習講座

PTAっておもしろい

【平湯紘一さんのお話】  

≪PTA離れとか、
PTAはいらないという風潮がなぜこんなにもはびこってきたのか≫  

 もう足掛け3年半くらい経つのですが、杉村房子さんというPTAについての本を出している、専攻が社会教育学の人や、現役のPTAに関わっている先生たちやいろんな人たちが集まって、フォーラムPTAというのをやっています。「PTAって何かできないのか」という思いを持っている人たちが声掛け合って、毎月1回のペースで会っています。目標は、PTAに関しての一種の提言を出していきたいと思っているのですが、今最後の詰めをしているところです。おそらく夏くらいまでには出せるでしょう。

 長時間論議してくると、いろんなものが出てきます。最初のうちは、「PTA離れとか、PTAはいらないという風潮がなぜこんなにもはびこってきたのか」ということについて話し合いました。いくつかの要因として整理されたのは、一つは親の価値観が非常に多様になっているのに、PTAはこうあるべきという、何となく定着しているPTA像が非常に固定的というか、杓子定規、魅力がない、おもしろくない。そういうところに大きな原因があるのではないか。それではPTAがおもしろい時期というのはあったのか。残念ながらそれぞれの体験的にこういういきいきとした時があったというのはあるだろうが、何をやってよいかわからないようなことというのは共通している。何がそうさせているのかという発想が、他の人たちに呼びかけてもなかなかPTAの行事などに集まってこないという、皆は無関心だという会員批判になりがち。表向きにはなかなかいえないけど影で出てくるのは、先生たちが無関心という声が非常に強い要因としてあげられる。確かに先生たちは親と話すのが怖いという傾向があるのだけれど。これも現象には違いないけれど、原因にはなかなかピタッとこない。それでは何故だろう。それを考える時に一つのヒントになるのは、ここ数年行政への市民参加とか、街づくりへの市民参加とかという動きがあちこちでありますよね。大分の湯布院というところでは街づくりへの市民参加が定着している。大学で社会教育を学んだ人たちが中心になって、行政を何とかしたいという目的意識の仲間たちが集まって、それをすすめるために行政をまきこんでいった。もう30年近くもなる。これは結構面白がって皆やっている。ごく最近になってくると、町が自分たちの基本条例を作り、それをもとに市民参加の方法を作っていく。それの口火を切ったのが、北海道のニセコ町。町長が住民参加・市民参加という行政が主導してやっていくのではないやり方を積極的にとっている。町の情報を公開し、皆でいい知恵を出し合う。このやり方で町は非常に元気づいている。そしてこの前町づくり基本条例を作ったそうです。

私の住んでいる市でも、市長が突然「町づくり基本条例」を作ると言い出しました。3年前の市の長期計画を作るときの手法が、公募して市民10人を委員にして町づくりのグランドデザインについて語り合うというものでした。その中に『協働の町づくり』という柱があるんです。市民参加と協働ということがすべての柱の根っこに据えられている。具体的にどのようにするのが協働なのかはまだ見えてこないけれど。

今募集が始まったのですが、学識経験者3人と市民2人で審議会を作り、1年間かけて話し合い基本になる検討をして、それをもとに来年度は正式な審議会を発足させて『町づくり基本条例案』をまとめていく。この中には子育てや教育・文化という項目もあります。これにどんなふうに参加できるのか。スローガン的に協働とか市民参加とか言いながら、実際には教育委員や職員のほとんどがそれを理解できていない。具体的なイメージがない。

≪行政の側は本当の意味での市民参加ということを切望するようになる≫

 埼玉県の鶴ヶ島市では、開かれた学校づくりをすすめています。教育委員会というのは通常諮問機関を持っていないのですが、鶴ヶ島市では教育委員会の中に教育審議会を作りました。一般市民・PTAの代表もいれて開かれた学校づくりについて話し合いました。そこで、学校を地域に開く・父母に開く・子どもに開く・教師に開くということを明確に打ち出しました。これは、学校を開いていくということを今さかんに文部科学省でも言っていて、学校評議員制度も打ち出しましたが、あれでさえ教師を評議員のメンバーとして想定していないし、子どもの参加も想定していません。ところが、鶴ヶ島市の場合はそうではありません。小学校8校、中学校5校くらいあるのですが、皆がみんな足並みをそろえてということではありませんが、やれるところではもう子どもも参加した形でやっています。学校を開くということはとりあえずやったのですが、問題は教育行政を開くということで、それには手つかずです。教育行政を開くということはどういうことかと 今 教育審議会で検討中です。

(注:この鶴ヶ島市の教育委員会の取り組みについては、『母と子』2001年3月号に詳しく書かれています。)

≪こうした行政への市民参加の動きが
PTAのおもしろさを引き出す一つのきっかけになっていくのではないでしょうか≫

 PTAで話し合ったことが、生きて形を得ていく実感を持てるようになるのでは…そんな期待感がある。従来PTAは行政との関係という点では、要求団体の一つという位置づけ。要求団体としての活動はしてきた。主体的に自分たちの行政の課題を自分たちの側も担うんだというんだという、問題解決のためにはどのようにしたらよいのかということを提案してきていなかった。一方的に学校・自治体からの動員に協力するというようなあり方でしかなかった。それがPTAに魅力を感じなかったり、あるいはなくたっていいじゃないかという思いを抱かせたのは当然といえば当然かもしれない。

むしろ、そういうふうな基本的な枠組みであったにも関わらず、PTAというものに熱心で、社会運動的にPTAをがんばろうという人たちというのは、思い入れが強かったからそうできたのかもしれない。熱心にやったからといったって、枠組みそのものはあらためていないのだから。

 行政の方は、いろいろなことを市民参加でやっていかなければどうにもならないというふうになっている。鶴ヶ島は公民館が4つあって、公民館活動がとても盛ん。とてもたくさんのサークルがある。特別なものがあるわけではないが、自分たちで自主的に取り組む、一種の市民民主主義という経験をした人たちが非常に増えてきた。そういうふうに育ってきた人たちが、公民館を大事にする人を市長として選び出しました。行政が、組織された、学習の蓄積を持った市民を期待するというのは当然の流れ。一般的な目で見れば、PTAというのは社会教育的な側面を持った、自主的な組織です。そういうPTAに行政が期待を持つのはごく自然のことです。その時必要なのは、鶴ヶ島のように、わが町の教育はどんなふうなことをめざし、どういう方向で実行していくのかということを明らかにしようと教育憲法的に、きちっと出されているということ。それが信頼できるものであるとみんなが認識できてはじめて、行政のご都合主義によるPTA動員でなく、そういうことのためにPTAが協力していく、あるいはPTA育ちの市民が協力していくことができる。

念仏みたいに旧来のPTAの目的を言葉だけで言っているのではなく、具体的な客観的な青写真を示して行く必要がある。

 ≪これからのPTAへの提案≫

 最近は、PTAOBや地域住民も参加できるPTAの提案も出てきている。もう一つの提案は、子ども参加型のPTCA。長野県の辰野高校というところでは進められているそうですが、三者協議会というのがある。子どものためと言いながら、子どもの意見表明を権利条約で謳いながらも、実際には学校を作るとか学校運営、あるいは授業をどんなふうに行うという教育課程づくりなどを含めて、ほとんど子どもの声を聞く仕組みがないでしょう。これだけ勉強嫌いとか、学校嫌いの子どもたちが圧倒的増えてきているのに、子どもたちに参加させないまま、大人だけがああでもないこうでもないとやっているのはおかしい。

 今、PTAは任意団体ですね。任意団体というのは社会契約ができない団体なんです。NPOとしてきちっと位置づけをして登録して、必要な体裁を整備すると、例えば行政との間で契約主体となれる。学校の施設を借りる貸借関係を結び、その運営管理についてもまかせられる、一つ一つ行政との契約を結ぶということができる。いろいろな発想で、広がりが出てくる。と必然的に責任も出てくる。体験主義的な思いや実感、そういうものだけでものを考えていかれなくなる。そういうものになっていけば、学習しなくてはならない。受身の形での学習ではなく、きちっとしたテーマを持ち、学習したことが実践に結びつくような学習を。そんなふうなことも考えてみたらどうでしょうか。

平湯さんがおっしゃったことにはとても共感できるんだけど、じゃあ自分のPTAではいったいどうしたらいいのかと考え込んでしまう。先日もPTAの委員選びとか委員会での委員長選びとか見ていると、委員長になるのは外れくじにあたったようなもので、動員されていくPTAの活動というのは皆にとっては嫌々で、子どもが世話になっているからしかたない1回くらいはやろうかなという思いでやる人が多い。自分は関わってきてとても楽しかったのだけど、そういう思いだけでは皆をひきつけることはできなくて、具体的にどうしたらよいのか悩むのだけど、なかなか具体的なイメージがわいてこないんです。

先日PTAの総会があって、参加者が80名程度だったんです。会員は600人以上いるんです。関心がないのと、長時間に渡ったということもあったのですが。委員選びをする懇談会があって、全体会があって、その後に総会があったんです。総会の出席者がこんなに少なくていいのかなと思いました。どうしたら委員をやってもいいと思うのでしょう。楽しくなかったり、わずらわしかったりだと思うのですが。

昨年度広報部の部長をしたのですが、その時思ったのは、何かをやりたいと言った時に、学校側がとても及び腰で警戒するんです。そして阻止しようとする。

学校が保護者に学校を開く、そのあり方の基本的な理念を自治体がきちっと明文化する必要がありますね。こういう考えを持って親たちに学校を開くということを、親たちにも学校のことを良く分かってもらう、親たちの疑問には誠実に答える責任があるということを、きちっと条例として謳い込む。そういうことをしないと、個別に、体験的に憲法を持ってしまっている。たてまえはたてまえにして、校門に入ったら基本的人権がなくなっちゃったとよく言われるように、そのような考え方を持っているのは間違いない。そんなものまで条例を作らなくてはならないのかと最初言われるかもしれませんが。

私がPTAに関わり始めて16年くらいたつのですが、その間学校や教育委員会の雰囲気は確かに変わってきました。私がPTA会員になりたての頃は、教頭による広報紙の検閲があって、記事の差し止めなんていうこともありました。PTAとうまく協調してやっていこうと、はなから拒絶しような管理職は少なくなったと思います。統計を取ったわけではないので、あくまでもそういう印象ですが。去年から、千葉県教委の主催で学校単位の地域教育ミニ集会というのが始まったのですが、その時に「授業に対してどう思いますか」とか、「子どもたちの様子についてどう思われますか」とか、今までの保護者会では聞かれなかったような質問をしていました。やっぱりお題目のように言われている「学校を地域に開く」ということを少しでも具体化していく動きというのはあって、少しずつですが雰囲気は変わってきています。寄付金についても、校長会の申し合わせで、PTAや市民からの入学式や運動会などの時の来賓からの祝金は受けとらないというようになりました。個別のPTAで管理職と闘うというのは非常に厳しいし、1年経てばまた元に戻ってしまうというようなことはいくらでもある。

今までなんとなく、動員され、協力させられてきたことをもっと明るみにするというか、ちゃんと契約にすればいい。校長とPTA会長がなあなあで話し合って、「わかりました。お手伝いしましょう」なんてやってきたけれど、そういうことを契約関係にする。契約関係というのは対等な関係なんです。動員はそうではないですね。

広報委員会で話し合ったことの方が大事なんだけど、学校側から何か言われると、保護者の方がしりごみしてしまって、自己規制するようになってしまう。

違う意見がぶつかった時に、それを何とか乗り越えて解決していこうとするとものすごいエネルギーが必要になる。時間もかかるし。そこにエネルギーを注げなくなっているのかもしれない。

子どもを巡ってこんなにいろいろ問題があるのに、PTAの中でそういうことが語られない。PTAがそういうことを語り合う場だということを知らない人が多くなっていて、総会は先生も出席しているし、子どもの状況や地域の問題を出し合って話し合う場として一番良いところだと思うのだけど、そういうところは少ない。自分が総会に出て、皆でこんなことを話し合えて良かったとか、得るものがなければ、議題をこなすだけでは魅力がない。親は皆子どものこと心配しているのに、その心配を共有できてない。共有して、解決し合うPTAになるといいんだけど。

PTAに熱心な先生がいて、親と子どもについて語り合うのが大好きなんですね。どうしてそんなに熱心にやるのと聞くと、楽しいからなんだけど、失敗の経験があって、自分の思いこみでこの子は問題だとか、この子はこうだからこうしなくてはとか、親はどういう考え方をし、どういう生き方をしているのかは全然知らなくて、見当外れな子どもの見方をしていた。親とよく知り合うようになり、それが子どもに向かう時に豊かな材料になった。親が担任の先生なんだと。親と話し合わないで、担任が続けられるとは思えない。そんなふうに言っていました。

教員養成の大学の中で、父母と語るとか、PTAの持つ意味・可能性について学ぶべきでしょうね。座学としてではなく、PTA実習をしてほしいですね。

(まとめ:浅井ゆき)