子ども中心の教育改革を
「松戸市版教育改革」に思うこと
神 惇子(元松戸市教育改革市民懇話会委員)
広報まつど(2003.5.25. NO.1164) は、「スタート! 松戸市版教育改革」と銘打って教育改革全体構想を示している。これを一読して私は「やはり」と思いつつ落胆した。
「松戸市教育改革市民懇話会(以下懇話会と略す)」は松戸市独自の教育改革を実施するために設置されたはずだった。しかし、今回出てきたものは「懇話会」最終報告の視点を尊重しながら教育委員会(厳密に言えば事務局)が作成したものである。
「懇話会」は教育長の諮問会議であり、諮問に当たって教育長が強調したのは、「松戸市独自の」ということだったと私は受け止めていた。教育改革国民会議の提案やレインボープランの単なる焼き直しにしたくないという思いが感じられたので、私も仕事の合間を見てではあったが、全力を上げて勉強し考え、必死で意見を述べた。それは片思いであったのかもしれない。紙面にまとめられたものからは、文部科学省が進める「改革」路線を基本とし、少々彩りを加えたというものとの印象は拭い得ない。「やはり」と思ったゆえんである。
教育委員会企画管理室に問い合わせると、これはアクションプラン策定途上の計画であるとのことなので、軌道修正や追加構想が加わることを願って、松戸市総合計画第2次実施計画(以下「実施計画」と略記)と合わせて批判検討してみたい。
今回の改革の目玉は「IT」
全体構想図によれば「教育を支える3つの基盤」として『IT環境の充実』『評価・教育資源の整備』『学区制の緩和』が掲げられ、教育情報センターの設置をはじめ、「実施計画」にも「図書館情報化」「校内LAN工事整備」「青少年の情報ネットワークづくり支援」博物館の「情報デジタル化」と『IT環境の充実』のかかわる項目が並び、今回の改革の目玉は「IT」なのだという印象がある。今や情報化社会である以上IT化推進は避けて通れないのは確かだが、しかし情報は手段であり目的ではない。無限ともいえる情報をいかに取捨選択してそれぞれの人の学習に役立てるかが大切なことであるはず。その基盤の上に載るべき「4つのプラン」の輪郭がはっきりせず、「懇話会」報告の改革提言4項目とも異なるのでわかりにくい。
「特色ある学校づくり」―学校を競争させ、ふるい落としていくための手段?
「子どもいきいきアシストプラン」はほぼ「懇話会」報告の[1児童生徒に基礎基本を定着させる学校教育]にあたると思われるが、報告で掲げた[少人数学級・少人数授業などの・・検討]が消え、[特色ある学校づくり]が前面に出ている。先にあげた基盤のひとつが『学区制の緩和』であることとあわせて考えると、改革の方向として「適正な学区の再編や学校の統廃合」(「実施計画」)を優先するということらしい。
特色ある学校づくりをめぐっては、懇話会の中でもその意味合いが時によってずれることがあったが、品川区や足立区のように、学校選択制導入のための方策となることを懸念して私は抵抗した部分である。地域による特色があるとはいえ、松戸市の中で子どもや親が選ぶべき特色(選択肢)をそれぞれの学校が用意するには無理があるではないだろうか。品川区には算数に力を入れることを特色にした小学校があるという。しかし、どの小学生も算数の基礎力はきちんとつけてほしいのではないだろうか。足立区のように学力テストの結果を公表し、学校選択の資料にするなどは論外である。品川区の若月教育長はやる気のない教員に活を入れるために競争原理を導入するのだと公言しているが、結局のところ競争させられるのは子どもたちであり保護者である。後に触れる地域に根ざした学校ではなくなり、むしろ地域はばらばらになっていくだろう。「特色ある学校づくり」の特色とは「松戸市としての特色」の意味だという説明をされたこともあって何を狙っているのか不明であるが、学校を競争させ、ふるい落としていくための手段として使われることがないように願うものだ。なぜこのことにこだわるかといえば、教育委員会は学校の統廃合を行うという大変重要な方針を持っている。『学区制の緩和』を教育改革の基盤とし、「実施計画」にも学校の統廃合が明記されているからだ。学校選択制度によって生ずる人気のない学校を廃校にするのではないかという心配である。懇話会の中では学区の再編成を巡って意識的な議論はなかったし、杞憂であることを望みたい。6月議会では学校の適正配置の問題として何人かの議員が質問するという。注目していきたい。
子どもたちに
基礎基本を定着させるために
子どもたちに基礎基本を定着させるために具体的に何をしようとしているのだろうか。「懇話会」では「少人数学級・少人数授業」の早急な実施であるとの合意があったと思う。企画管理室によるとアクションプランにかかわる検討が校長会で始まっているとのことであるが、4Rsのうち、読書算に加えられた最後の責任(懇話会ではしつけの意味で強い主張が行われていた)にのみ偏ることのないように願う。むしろそれぞれの学校で先生たちの創意工夫がうまれ、活かせるような方向での検討を望みたい。
「実施計画」によると「スクールカウンセラー」「学校支援ボランティア」が学校教育推進の大きな柱になっている。いずれにせよ、どんな資格と能力を持った人が学校に入るのだろうか。いじめや不登校対策、あるいは読書指導、学力向上を目的に教員以外の人が臨時的に学校に入ることによって新しい困難も生ずるはずである。むしろ、少人数学級にして、教師が一人一人の子どもに目をかけ、声をかける機会と時間を増やしたほうが良いように思うのだが。
本年度実施の目玉である「コミュニティスクール」も「懇話会」の中でその定義が二転三転した経緯がある。「懇話会」報告の中にはアメリカで公立学校に活を入れることになった「チャータースクール」的なもののイメージも書き込まれているが、今年度に予算化された「サタデイスクール」はいくつかの学校ですでに行われている世代交流会や総合学習・体験学習を発展させるもの、という性格のようである。実施細目は未発表だが、地域に開かれた学校、あるいは地域が育てる学校として、学校を中心とした地域社会を作ろうという「懇話会」報告提言2に沿うものといえる。募集要項の発表が7月で開校が10月というスケジュールは準備時間が足りないと思われるが,小中学校を拠点にすでに活動しているグループが数多く名乗りを挙げて活動を広げ定着していくことを期待したい。
「豊かな心をはぐくむ市民フォーラム」
もうひとつの目玉は「豊かな心をはぐくむ市民フォーラム」の実施。家庭と地域と学校を結ぶ場として考えられているようだ。3月に出された中教審答申は「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成」をめざす教育基本法を「改正」することを提言している。1980年代以降の子どもや青年をめぐるさまざまな現象を教育の問題と捉え、とりわけ心の問題にする傾向があり、社会の秩序形成を図るため道徳やしつけ教育が声高に叫ばれるようになった。中教審が教育目標とする「心豊かでたくましい日本人の育成」とは愛国心教育に収斂する。昨年から小中学生全員に配布されている「心のノート」はすでにそのねらいを持ってつくられた事実上の国定教科書である(そのこと自体憲法違反!)。その意味でも「心の教育」といわれると私はちょっと待って! と思うのである。
実は「懇話会」報告の中にも教育支援ボランティアとして「豊かな心をはぐくむボランティア」が書き込まれていが、会議の中では話題になった記憶がない。正直に言って心の中まで触らないで! というのが私の感性であるが、上記のようなことまで考えると、ちょっと不安になるのである。学校も家庭も地域も、皆で子どものこと、お年寄りのことを考えましよう、というのに「豊かな心」という修飾をしなければいけないのかなと思う。東京などすでにいくつかの地域では「心の教育」を標榜した講演会が開かれ、「つくる会教科書」などを推進している右派の学者が「母親が夫(父親)を立てれば子どもは良くなる」といった啓発をしていると聞く。そんなことにならないように切に願う。
「基礎学力再履修講座」
もうひとつの目玉は「基礎学力再履修講座」であるようだ。松戸市に夜間中学をつくる市民の会が20年以上にわたって、中学校夜間学級の設置を求め続けてきたことに対し、教育委員会は一貫して「生涯学習で対応する」としてきたものの実現ということであるらしい。すでに定員をオーバーする受講生がいるとのことであるが、受講資格は義務教育修了者であり、一定の学力を習得した受講生には修了証書は発行されるが、当然卒業証書ではない。したがって中学校夜間学級設置の要望にこたえたことにはならない。しかし、6月の教育委員会定例会議において「不登校の子どもでも要望があれば拒否はしない」と事務局は答えている。今後この講座をどのようなものにしていくのか試行錯誤の状態であるともいうことなので、これまでの行きがかりにこだわってかたくなになることなく市民とのパートナーシップで夜間中学を望む市民の希望にもこたえてもらいたいものである。
市民と行政の協働
市民が参画する「教育審議会」を
さて、落胆した私がまだかすかに希望を持っていることに触れたい。
「懇話会」最終報告に「視点を超えて」として「市民と行政の協働」を検討するという部分である。広報まつどには触れられていないし、「実施計画」にもみあたらない。
私が「教育審議会」として提案したものが、第2小委員会の支持を得たが、教育委員会との関係や、市民の代表性を疑問視する意見があって上記のようなぼやけた表現になっている。
「教育審議会」と教育課題についてさまざまな、利害の異なる市民が一堂に会して協議する場として提案した。別の委員は「懇話会」が出した報告がどのように実施されるか、見守っていくことも必要だという意味で、第2「懇話会」という意味でこの提案を支持した。モデルは埼玉県鶴ヶ島市の「教育審議会」。「鶴ヶ島市教育審議会設置条例」によれば市民の参画と協働により・・教育改革を進め教育の真の目的達成のために設置されたもの。構成員は保護者、学校教育・社会教育団体の代表者、各界の有識者、街づくりに関する学識者と定められている。高知県には[土佐の教育改革を考える会]として県レベルの組織があるとのことで、実は鶴ヶ島市も高知県の改革から学んだ面もあるという。
実は高知県も鶴ヶ島市も教育改革の土台には学校ごとに教職員、保護者、地域住民そして子どもが加わった組織(たとえば鶴ヶ島市では「学校協議会」)がある。学校協議会は地域に開かれた学校のひとつの姿である。先のサタデイスクールが地域に開かれた学校へのステップという性格も持つのであれば、松戸市版「学校協議会」「教育審議会」も夢ではないと思う。懇話会では「学校協議会」への抵抗感も強く「学校評議員制度の拡充」という表現にとどめられてしまった。「学校評議員制度」は制度上学校長が評議員を委嘱し、評議員は学校長の相談に乗るという関係でしかない。拡充することで「協議会」的性格も持たせられるという説明を受けて、私は最終報告の表現を受け入れることになった。松戸市は「行政と市民のパートナーシップ」を掲げているのだから、市民が参画する「教育審議会」は松戸市らしい教育改革にふさわしいと私は考えている。学校を核として地域コミュニティづくりを行うためには松戸でも、「学校協議会」的なものの存在が欠かせないと思う。
学校協議会のような場で学校評価を
「学校協議会」は学校(教育)の評価という面から見ても有効だと思うのだ。『評価』も今回の改革の基盤のひとつとされているが、「実施計画」に見るような数値目標をあげて達成度を測るというものだけが評価ではないだろう。とりわけ教育という営みは限られた時間の中で数値では表現しきれない。評価は次へのステップのために行われるものだ。日々成長し、変化する子どもを丸ごと受け止め、見守る大人たちがそれぞれの立場からお互いの顔を見ながら率直に意見を交わし、時には子どもの意見や希望を入れて対策を練る中からという新しい試みも生まれるだろう。そのような会議の場こそ評価の場でもある。「実施計画」によれば学校教育の評価基準として「目標を持って学校生活をしている児童生徒の割合を現在60.4%から65%にする」とあるがこの種の数字がまったく無意味とはいわないが、むしろ子どもを挟んで、それぞれの学校ごとに教師と保護者が、学校関係者と地域住民がじっくり話し合い、反省点に基づく新たな目標を作っていくことこそ真の意味での評価ではないだろうか。
最後に
不消化で終わった懇話会の後でずっと気になっていること、それはこの報告では子ども、青年が主役として登場しないこと。
青年たちの居場所の問題、放課後の子どもたちのよりどころについてなんら提言できなかった。中間報告後の市民の意見を聞く会においても、「実施計画」においても、すでにある子ども会などの組織に子どもたちを集め、集団として管理する方向が考えられている(「実施計画」第3節第5項青少年育成団体への小中学生の帰属率を43.4から45.0%へと目標設定されている)。むしろ、既存の団体へ帰属しなくても、放課後の子どもたちが安心していける場所があり、そこには子どもの話を聴いてくれる大人がいる、そんな場所が必要だ。たとえば空き教室を使って児童館とする。青年たちには街づくり構想から参加を求め、居場所作りのアイディアを出し、スタッフを担ってもらう、そんな方向性を出せたらよかったが時間切れになってしまった。「中央図書館機能を持つ生涯学習会館構想」という文言がやっと「懇話会」報告に入った。これも上記青少年の居場所のひとつになるはずである。生涯学習会館構想研究が「実施計画」のなかに埋めこまれているものの、「研究」にとどまるところに後退してしまったことは非常に残念である。
障害児の教育、不登校の子どものことなどもほとんど論議されていない。第二懇話会が引き続き必要とやはり思う。
根本的には教育改革を進めるに当たって、松戸市の教育の諸課題の現状把握を行わないまま、あるべき姿を求めるという手法を取ったため、かなり観念的な「あるべき姿」を求めての議論になった。ここに一番の問題があったと思っている。