2002年4月23日

松戸市教育改革市民懇話会委員各位

松戸市PTA問題研究会

松戸市教育改革市民懇話会 これまでの経過(案)への意見書

 

 私たち松P研では、これまでの市民懇話会での論議に関心を寄せ、その推移を見守ってきましたが、6回も回を重ねながらも、中々深まらない論議にいらだちさえ感じることもありました。その様な段階で、中間報告とも言うべき『これまでの経過(案)』が提案され、このようなまとめを出せるほど議論が深まっているだろうかと、非常に疑問を感じております。
 そこで、私たちは『これまでの経過(案)』を読み、松戸市の教育改革について考えるという例会を持ちました。例会の参加者による話し合いをまとめ、ここに意見書を提出することにいたしました。
 

1.        第3回懇話会では、「変化(=問題)に対応するだけでは、主体性のない後追いになってしまう危うさがある。主体的に変化(=課題)を創り出すという積極的な視点からなされる創造的な営みを“改革”と考える」という説明がありました。これは、教育の場での現実の問題に対応するという形で教育改革を考えないということでしょうか。なぜ教育改革をする必要があるのか、現在の教育のあり方のどこに問題があるのか、これまで様々な問題にどういう解決策をとってきたのか、その効果はどうだったのか、そうした検討・検証なしに改革の議論を進めるのでしょうか。
『これまでの経過(案)』の冒頭の部分で、近年の青少年に関わる事件の多さに触れ、「子どもたちの社会性の育成や豊かな人間性や道徳性をそなえた市民に満ちた社会づくりを進めることが重要な課題」といっています。「心の豊かさや真に自立した生き方について議論が深めなければならない」とも言っています。こうした課題を解決するために、松戸の教育を改革する必要があるのでしょうか。そうであるならば、例えばどのような青少年の事件が起きているのか、なぜそのような事件が起きるのか、どうしたらそのような事件を防ぐことができるのか、そこから議論をスタートさせなければなりません。心の豊かさとは何か、自立とは何か、その議論もされなければなりません。教育は何もない白紙の状態ではありません。今、まさにこのときも、子どもたちが学校や地域・家庭で生活しているのです。
 全般的に、この「これまでの経過(案)」には松戸市の独自性を見出すことはできません。他の市の名前に置き換えても、何ら差し支えのない内容ばかりです。松戸の教育の現状をしっかりと分析し、懇話会委員の間でその現状認識を共有できてこそ、やっと松戸市独自の教育改革を議論するスタートに立てるのではないでしょうか。

2.        1999年の国際教育到達度評価学会が行った世界38カ国・地域の中学2年生を対象とした数学と理科の学力調査によると、日本は数学で5位、理科が4位でしたが、数学を「大好き」「好き」と答えた生徒の割合は48%(国際平均72%)で、38カ国・地域のうちで下から2番目、理科は55%(国際平均79%)で最低レベルでした。(2000年12月6日毎日新聞)
このことは何を意味するのでしょうか。「日本の子どもたちは勉強はできるけれど、勉強が大嫌い」ということなのでしょう。学校で学ぶことの意味も、喜びもわからず、ただ苦役としてしか受け止めていないのでしょう。そんな子どもたちに、“基礎・基本の定着を”といっても、それは非常に困難な課題となるでしょう。子どもたちの『学びからの逃避』ともいうべきこの状況を、教育における最大の危機と考える教育学者もいるほどです。子どもたちに“基礎・基本の定着を”と言うならば、まず子どもたちが学ぶことの意味を考え、学ぶ喜びを感じるにはどうしたらよいのかを検討する必要があります。
また、今世界に目を転じると、IT技術の発達などにより、国を超えた人々のつながりや関わりが以前に比べて格段に増えています。様々な国の人たちと民族・宗教・文化の違いを互いに認め合いながら共に生きていく力や、あるいは国際的な問題が起きた時に、様々な国の人たちと議論し、それを取りまとめ、新たな提案をしていくという力が求められているのではないでしょうか。『これまでの経過(案)』では、「松戸市では、読み・書き・計算に加え、社会生活において必要な責任の能力が不可欠であると考え…」とあり、唐突に「責任」という言葉が出てきます。なぜ「責任」なのでしょうか。その根拠を明示していただきたいと思います。私たちは、むしろ責任能力よりも、人や社会・自然と関わる力、あるいは様々な人たちとどれだけ協同して問題を解決していけるかという力などがより不可欠であると考えます。
子どもたちにどんな力を身につけさせるかという議論をもっとしっかりとしていただきたいと思います。
 また、一人一人の子どもたちにしっかりと基礎・基本を身につけさせるためには、時間をかけてじっくりと丁寧に教師が向き合わなければなりません。懇話会では、少人数学級の必要性が多くの委員の方から出されていたと思います。ぜひ少人数学級を松戸市独自で実現させるよう、懇話会の意見としてまとめていただきたいと思います。

3.        視点2や視点4で、学区の自由化について触れていますが、懇話会では自由化についてどのように考えているのでしょうか。懇話会としての姿勢はあまり明らかにされていませんが、「新しい発想によってこの新しい課題に対応していかなければならない」と書かれているのを読むと、どうやら学区の自由化を進めるという方向性を暗示しているような気がしてなりません。学区の自由化はつまりいくつかの地域から子どもたちが学校に通ってくるということであり、そうなった場合、それまでの学区という単位の地域との関わりはいったいどうなるのでしょうか。小学校区というのは地域の単位としては子どもでも歩いていける大きさであり、現在の日々の交流もその単位で行われており、とても交流しやすい大きさの地域です。そしてその学区の地理的な中心にあるのが小学校であり、小学校を核とした地域コミュニティづくりというのはとても自然なあり方だと思います。もし我が子が自分の住んでいる地域の学校に通っていなかったら、親は果たしてその学校と関わりを持つでしょうか。我が子が通う学校に、より密接な関わりを持つのは当然のことです。地域の中で日々出会う子どもたちの通う学校だからこそ、地域の人たちはその学校との関わりを持つのではないでしょうか。PTA会員の住む地域もばらばらになってしまい、例えば子どもたちが生き生きとした生活を送れるような地域づくりを考えるという活動は、成り立たなくなってしまいます。学区自由化を進めたら、学校と地域の関わりは非常に表層的なものになってしまうと考えます。
また、学校が自由に選択できるということになれば、皆で話し合って学校を良くしようとしなくても、より良い学校へ移ればいいということになってしまいます。例えば、中学校で校内暴力の問題が起きた時、皆で話し合い力を合わせて解決していこうというのではなく、校内暴力のない学校へ移ろうとするでしょう。学校を選択するということは、学校をまるで商品のようにどちらが良いかと選んでいくことです。自分たちが学校をより良いものにしていこうという参加の仕方はなくなっていくでしょう。皆で学校をつくるという視点はなくなってしまうでしょう。
以上の点から私たちは学区の自由化はすべきでないと考えます。やむをえない理由がある場合に限って、弾力的に対応するという形で十分だと考えます。

4.        視点3で不登校の子どもたちへの対応が書かれていますが、不登校の問題をきちんと検討した結論であるとは思えません。不登校はどの子にも起こりうる問題だというのは確かなことですが、だからといって、なぜ子どもたちが不登校になるのかという検証をしなくてもよいということではありません。勉強が苦役であったり、人とうまく関われなかったり、校則が厳しかったり、いじめがあったりと様々な原因があるでしょう。一人一人みな違っているでしょう。しかし、少しでも子どもにとって学校に居場所があれば、じっくりとその子と向き合う先生がいたら、と思います。一つ一つの原因を少しでも解決していく努力がもっと必要です。そして不登校の子どもたちが現在の学校へ投げかけている問題をしっかり受け止めてほしいと考えます。子どもたちが学校に合わせるのではなく、子どもたちが喜んで通いたくなるような学校づくりに力を注いでほしいと思います。そうした視点が今回の経過報告の中では欠落しています。
また、不登校になると子どもたちは地域に居場所がありません。児童館や公民館などの公共施設があれば、そこが居場所となることもあります。運動公園にある適応指導教室は、体育館の一角にあり、その施設・設備はあまりにも貧弱です。そしてあくまでも学校復帰を目的としており、不登校の子どもたちの居場所としては想定されていません。また、市の教育相談を何度か受けた上で入室が許可されるので、不登校の子どもたちにとって行きやすい場所でもありません。行きたい時にいつでも行かれ、そこに行けば誰かと出会える、そんな場所が必要ですし、不登校の子どもたちを暖かくサポートする専門職の人たちの存在も必要です。不登校の子どもたちの居場所を作ろうと親の会でも取り組んでいるところがありますが、これこそ行政がイニシアチブを取ってほしいものです。不登校の子どもや親が孤立しないように互いの交流ができ、また進路や就職等の情報提供、カウンセラーの配置などをして、不登校情報センターの役割も果たすような居場所作りを懇話会で提言していただきたいと思います。

5.        今、全国的にひきこもりの青年が増えています。しかし、これまでひきこもりの子どもたちへのサポートはほとんどされていないように思えます。実態を把握した上で、どんなサポートが必要か検討していただきたいと思います。

6.        居場所がないのは不登校の子どもだけではありません。学校週5日制が完全実施となり、子どもたちが地域ですごす時間が増えましたが、やはり同じようにあまり居場所がありません。特に中高生の居場所づくりは早急に進める必要があります。松戸市には青少年会館があり、スタッフは優れた仕事をしていると思いますが、それ1つだけでは十分ではありません。また、浦安市や東京杉並区では企画段階から中高生の意見を取り入れて、青少年を対象とした施設を作り、管理運営にも中・高生が参加しています。自立した市民へ成長するために、こういう取り組みこそ必要なのではないでしょうか。松戸市では成人式を新成人が参加する実行委員会形式で行っていますが、日常的な取り組みとして、青少年が企画・運営に参加できるしくみをぜひ作ってほしいと思います。

7.        視点4として、学習評価システムを構築するとしています。学校が自らの教育活動を自己点検するというのは重要なことだと思います。しかし、例えば不登校の問題にどう取り組んできたかを点検・評価する時に、教育相談件数や学校復帰した児童・生徒数といった数値を指標にして点検・評価するとしたらどうなるでしょうか。その数値に振り回され、実態がかえって見えなくなってしまうのではないでしょうか。教育というものは、簡単に結果が出るものではありません。長い過程を経て、少しずつ形になっていくものです。また、目に見える形にならないものもたくさんあります。明確な目標を掲げ、それをどれだけ達成できたかで学校を評価するということは、目に見えない時間をかけた取り組みや、先生と子どもたちの日々の営みを切り捨てていくことになるのではないでしょうか。数値などの目に見える結果だけで学校を評価することがないように、十分に検討をしていただきたいと思います。

8.        今後の検討課題のひとつとしてあげられている、自発性を完全肯定するのではなく、発達段階や教育内容によっては「させる論理」に基づく教育が必要という意見について。
特に「正の価値を持つ自発性」と「負の価値を持つ自発性」という言葉は、とても回りくどく、何を意味しているのか非常にわかりづらいものがあります。本来自発性に正の価値を持つものと負の価値を持つものとがあるわけではなく、子どもたちが自発性を発揮した際に、時としてマイナスの結果をもたらすことがあるということだと思います。子どもたちはいくつもの失敗・過ちを繰り返しながら、そこから自分であるいは仲間や周りの大人たちから支えられて、多くのものを学んでいきます。マイナスの結果をもたらすからといって、子どもたちの自発性を否定したら、子どもたちは自発性を発揮することを自己規制するようになってしまうでしょう。自発性を制限するのではなく、過ちから自ら立ち上がっていけるよう、じっくりと見守り、サポートする社会の寛容さが求められているのではないでしょうか。「させる」のではなく、「見守りながらじっと待つ」「手をさしのべる」あるいは「後ろからそっと背中を押す」という姿勢が必要なのではないでしょうか。大切なのは、子どもたちが自分で過ちに気づく、自分の意思で一歩を踏み出すことだと考えます。「させる」のでは、何回も同じマイナスの結果を招くことになるでしょう。そして、「楽しい」「好き」「やってみたい」というような快の感情を繰り返し体験することで、子どもたちの自発性は高まります。その時には、子どもたちに「させる論理」を使うことが必要だという意見は何の意味も持たなくなるでしょう。

9.        地域に対する誇りと愛情を育む方策について具体的に検討する必要があるというもうひとつの課題について。松戸の風土・文化を理解するのは、自分が暮らす身近な社会・自然と関わりを持つ為に非常に重要なことと思います。また、バリアのない社会を実現することも大変重要です。しかし、それとこの誇りと愛情がどう結びつくのでしょうか。自分を取り巻く社会・自然環境を良く知り、それが自分にとってかけがえのないものとわかれば、おのずと愛着は生まれるでしょう。誇りと愛情を育むのではなく、子どもたちが誇りと愛情を持てるような地域づくりを、私たち大人が果たしていかなければならないと考えます。

10.   日本も1994年に批准した国連「子どもの権利条約」を松戸市は尊重し、一人一人の人権に配慮した教育を進めると今年度の教育施策基本方針で述べています。松戸市の学校で、地域で、家庭で、子どもたちの人権は守られているでしょうか。
1998年に国連子どもの権利委員会が日本政府の提出した報告書への最終見解をまとめました。その中で子どもの権利条約の理念が生かされていない懸案事項として指摘されたことは22項目にも上ります。例えば、「
特に条約が権利の完全な主体としての児童の概念に重要性を置いていることについての認識を、社会の全ての部分において、児童及び成人の間で同様に、広く普及し促進するためにとられた措置が不十分であることを懸念する。」あるいは、「委員会は、学校における暴力の頻度及び程度、特に体罰が幅広く行われていること及び生徒の間のいじめの事例が多数存在することを懸念する。体罰を禁止する法律及びいじめの被害者のためのホットラインなどの措置が存在するものの、委員会は、現行の措置が学校での暴力を防止するためには不十分であることを懸念をもって留意する。」などです。
松戸市でも、子どもの権利条約を尊重するのならば、子どもたちの権利がいかなる場でも守られているかどうかという検証を徹底的にする必要があります。そうした視点が、懇話会の論議の中には出てきませんでしたし、懇話会委員の中でも子どもが権利の完全な主体であるという認識が徹底されていないような感想を持ちました。
改めて、「子どもの権利条約」を尊重した松戸市の教育という視点で、論議をしていただきたいと思います。

11.   現在の松戸市の財政が厳しい状況にあるということが懇話会の教育改革についての論議の方向に制約を与えていませんか。お金をかけないで、思いきった改革はできません。20年以上も前から教育改革に取り組んでいる福島県の三春町では、改革に取り組み始めた最初の数年間は、教育予算が町の予算の3分の1を占めていたそうです。また、先日中学校の全学年で少人数学級を導入することを決めた山形県の高橋知事は「義務教育を受ける機会は一度しかない。公共事業より優先して財源を確保したい」と話していました。(2002年4月13日朝日新聞)山形県のように、財政は厳しくとも、教育を優先するということで、松戸市も財源を確保することができるはずです。松戸市の最優先課題として教育改革を位置づけるように求める提案を懇話会で出していただきたいと思います。

12.   地域の人々や教師,保護者をさして、教育資源・人的資源と呼ぶことには、とても違和感を覚えます。対等な立場で共に教育をつくっていく市民に対して、資源という言葉を使うことは、主体は行政だと宣言しているかのようです。人に対して資源という言葉は使わないでいただきたいと思います。たかが言葉と思われるかもしれませんが、その言葉に松戸市の教育行政の姿勢が現れていると思います。

13.              最後に。当事者からの意見をヒアリングする場を作るべきだと思います。先生や子ども、父母、障害を持つ人々、不登校、ひきこもりの子どもたちとその親たち。当事者が何を考え、どんな支援を求めているのかを知るためには、当事者から話を聞くことが一番大事なことだと思います。
また、松戸市教育委員会では「市民の要望に対応できる、市民の意見に敏感な教育行政を行う」としています。そのためにもぜひ懇話会委員の方たちと市民が意見を交換できる場を作っていただきたいと思います。
懇話会のまとめを出すにあたって、拙速であってはなりません。どうかじっくりと、時間をかけて、論議を深めてください。

以上