中教審中間報告への意見書

松戸市PTA問題研究会

代表 浅井ゆき

 今回の中間報告を読んでいて最も強く感じることは、そこに子どもたちの姿や思いが見えてこないということです。教育基本法の見直しについての検討が、子どもたちを置き去りにして、国の競争力を高めるために、優秀な人材を作り出すための国家戦略として行われているということです。

 中間報告では「新しい時代を切り拓く心豊かでたくましい日本人」を育てることをこれからの教育目標とするとあります。そこには、21世紀を厳しい競争の時代と捉え、その競争に打ち克つたくましさを国民に求めるという姿勢がこめられているのでしょうが、日本という国の国際競争力を高めるために国民がいるのではありません。一人一人の国民が幸せに生きるために、国があるのです。国の競争力の向上と国民の幸せとは同義のものではありません。一人一人の国民が幸せでなければ、どんなに日本の競争力が高まっても意味がありません。また、すべての人にたくましさを求めることは、たくましく生きられない人にとっては苦痛です。たくましくない人も幸せに生きることができるような社会を私たちはつくっていきたいと思います。
21世紀は本当に厳しい競争の時代なのでしょうか。また、日本の国際競争力を高めることが本当に必要なのでしょうか。たとえどんなに厳しい競争の時代であっても、それに打ち克つ競争力を高めるのではなく、現行基本法の前文にあるように、「民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献」するという理想を実現することが大切なのではないでしょうか。有限な地球の上でどう生きていくかを学ぶことが教育です。競い合ったり、奪い合ったりしていては、有限な地球上で共に生きていくことはできません。


 今回の中間報告は、1966年の中教審の「期待される人間像」を読んでいるのではないかと錯覚するほど、貫かれているものがそれと同質です。現代の日本がさまざまな問題を抱え、その危機的な状況を乗り越えていくために、『新しい時代を切り拓く心豊かでたくましい日本人』を育てることが必要だと言いながら、40年近くも前と同じ人間像なのはなぜでしょうか。
『期待される人間像』では、こうも書かれています。『日本人は世界に通用する日本人となるべきである。しかしそのことは、日本を忘れた世界人であることを意味するのではない。日本の使命を自覚した世界人であることがたいせつなのである。真によき日本人であることによって、われわれは、初めて真の世界人となることができる』 あるいは、『正しい愛国心は人類愛に通ずる』とも書かれています。『日本の社会の大きな欠陥は、社会的規範力の弱さにあり、社会秩序が無視されるところにある』とも。40年近く前と現在の現状認識がほとんど同じということはどういうことなのでしょうか。中間報告で時代の変化に伴う大きな課題と指摘しているものは、40年も前から解決されていなかったのでしょうか。
 

 また、今年の8月に遠山文科相が発表した人間力戦略ビジョン『新しい時代を切り開くたくましい日本人の育成』とも、ほぼ同じ方向性を示しているのはなぜでしょうか。中間報告が、文科省主導で書かれており、これでは中教審の討議を経ているという形だけを取ったものと受け止められても仕方がありません。 

中間報告では、「これまでの教育においては専ら結果の平等を重視する傾向があり、そのことが過度に画一的な教育につながったとの指摘がある」と書かれていますが、教育基本法第3条で規定しているのは、教育を受ける機会の平等です。画一的な教育が行われてきたのは、教育基本法のせいではありません。現行の教育基本法には、〈一人一人の個性に応じてその能力を最大限に伸ばすという視点〉は、すでに含まれています。
〈豊かな心とすこやかな体をはぐくむ視点〉についても同様です。第1条に「心身ともに健康な国民の育成」と書かれています。
〈グローバル化、情報化、地球環境、男女共同参画など時代や社会の変化への対応の視点〉については、前文や第1条に書かれている「真理と平和を希求する人間の育成」「普遍的にして個性豊かな文化の創造をめざす教育」「社会の形成者」としての教育、というような理念で対応できていると考えます。また、ここで例示されている課題は現在の社会が抱える課題であって、将来においては、また新たな課題が生じてくるでしょう。そのたびに基本法を見直すのでしょうか。今子どもたちが生きている社会が抱える課題を的確につかみ、そうした課題に取り組む教育は、よりよい社会を作り上げるための「社会の形成者」としての教育で実現できるのではないでしょうか。その時代の課題を具体的に規定するのではなく、そうした課題に取り組む教育を理念として普遍的に盛り込んだ現行の基本法を変えるべきではありません。

中間報告では、付け加えるべき基本理念として〈日本人のアイデンティティ(伝統、文化の尊重、郷土や国を愛する心)もあげています。
国や郷土を愛する心を育てる教育を行うことは、憲法で保障されている内心の自由を侵すものです。自分が日本人であることを認識するのは、違う国の人や文化などに接した時です。その時に初めて、「日本人とは何か」「日本とは何か」を考えることができますし、その時になって自ら考えればよいことです。違いに接した時に「日本人として」考え行動するのではなく、互いの違いを認め合い、尊重しあい、同じ「人間として」共に生きていくことを考えていくことが大切です。異なる国の人や文化に接する前の子どもたちに、前もって「日本とは」「日本人とは」ということを教え込むことはマインドコントロールすることと同じで、子どもたちがいろいろな考え方、感じ方をすることを許さないものです。伝統といっても、良い伝統もあれば悪い伝統もあります。伝統だからといって、無批判にそれを受け入れるのは大きな問題です。
「国や郷土を愛する心を育てることが、同じ思いを持つ他国の人々を尊重するという心に通じる」と中間報告では述べていますが、それがなぜなのかわかりません。日本の学校に通う外国籍の子どもたちの思いはどうやって尊重していくのでしょう。愛すべき国に棄てられた人たちの思いはどうやって尊重されるのでしょう。愛着を持つほどの実体のない国をどうやって愛せというのでしょう。この国をどうしても愛することができないと思う人たちへも、「国を愛せよ」と強制するのでしょうか。それは憲法で保障されている「思想・良心の自由」を著しく侵害するものです。この理念を教育基本法に付け加えることには強く反対します。

「家庭や地域の役割」についての規定も付け加えようということですが、いったいどのような規定を盛り込むつもりなのでしょうか。先ほども触れた「期待される人間像」に書かれているような、『家庭を愛の場とすること、いこいの場とすること、教育の場とすること…』というような規定を盛り込むつもりでしょうか。国が法律で一律に家庭のあり方を規定するのは非常に問題です。現行の教育基本法の第2条『教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない』という規定と、第7条『家庭教育および勤労の場所その他社会において行われる教育は、国および地方公共団体によって奨励されなければならない。』という規定で十分です。現行の基本法の下、たとえば児童虐待の解決のための施策や子育て支援などの施策は、すでに多くの自治体で取り組まれています。社会教育の場での学習も行われています。一人一人が尊重されるような家庭づくり、地域づくりを国民が主体的に行っていけるような、社会教育の充実や支援の施策が求められているのであって、一律に法律で定めることには強く反対します。家庭は国家に必要な人材をつくるためにあるのではありません。 

今回の中間報告は、現行の教育基本法の本質そのものを大きく変えるものです。戦前の教育への痛切な反省からつくられたのが教育基本法であり、戦後の教育の理念を示したものです。教育基本法は、「国民主権」「基本的人権の尊重」「戦争放棄」という憲法の理想を教育の力によって実現するために、つくられたはずです。そして、子どもたちを含む日本に住む一人一人が、個人として尊重され、それぞれの持つ能力を最大限に伸ばすことができるよう、教育行政が守るべき姿勢を示していました。しかし、今回の中間報告であげられている理念は、すべて子どもや国民にとっての義務規定のようです。国民の教育への権利を保障するものから、国のために必要な国民を育てるための基本法へと、大きく変質させるものです。何度でも訴えます。私たち国民は、国のために生きているのではありません。地球上のすべての人たちが、いかなる理由によっても差別されず、個人として尊重され、平和で幸せに生きることができるような社会をつくることには力を尽くしますが、それは国の競争力を高めるためではありません。
 現行の教育基本法は、いかなる時代にも通用する普遍的な理念に貫かれています。すばらしい文章で書かれています。今求められているのは、この教育基本法の理念をいかに実現していくかということであり、中間報告に書かれているように変えていくことでは決してありません。

絶対に変えないでください。